白くま生態観察記

上洛した白いくまもん。生態日記。冬眠するので春になったら起こして

三秋縋「明日世界が終わるなら」

三秋縋さんのツイッターをたまに見る。

 

そのなかで記憶にあるのが、

 

「明日世界が終わるなら何をする?」と聞かれたときに、

「会いたい人に会いに行く」と答えるのではなくて、

「会いたい人の会いたい人は私じゃないかもしれないから、結局何もせずに過ごすと思う」と答える人が好きです。

 

というもの。

いまツイッター検索しても見当たらないので、完全に記憶に頼っている。細部は違うかもしれないが、おおかた変わらないだろう。

 

とても衝撃を受けた。

美しい。そして悲しい。

 

「会いたい人の会いたい人は私じゃないかもしれない」

こう答える人は、実は幸せな人である。

なぜなら、この人には会いたい人がいるのだ。世界最後の日に、どうしても会いたい人がいる。幸せ以外の何物でもない。

 

しかし、幸せであるはずの人は、幸せにはなれない。

「会いたい人の会いたい人は私じゃないかもしれない」

相手の幸せを考えてしまう。もしかしたら、あの人は私に会いたくないかもしれない。ほかの人と最後の日を過ごしたいかもしれない。

そう考えたとき、自分から会いに行く選択肢は消えてしまう。

 

会いたい人がいるのに、会いたい人の幸せを考えると、会いに行けない。

 

なんという悲哀か。

 

こういう人には

「相手の考えなんて自分にはわからないものだから、とにかく会いに行ってみなよ」

とか

「直接聞いてみればいいじゃない」

とか

そういう助言は意味のないものとなる。そんなこと、すべて承知の上なのだ。

承知した上で、答えている。

 

美しく、悲しい。

 

たった140字に、これだけの物語を込められるのは、本当にすごいと思う。

 

――付けたし

こう答える人は、きっと

「最後の日だから、あなたに会いに来たんだ」

という人を拒むことはできない。相手の想いを、受けとめることを選ぶ。一日を一緒に過ごすだろう。

だから

「私には会いたい人がいるのに、とくに会いたいわけではない人と世界最後の日を過ごす」ことになる。

その思いは、目の前のひとに悟られてしまうわけにはいかない。

 

なぜなら、相手が選んだのは私だから。目の前のひとが、最後に会いたいのは私だから。

世界最後の日に、悲しむのは自分だけでいい。

 

映画『危険な関係』

危険な関係

1989年脚色賞受賞。

ドロッドロの主導権争い。

 

【あらすじ・流れ】

18世紀フランス社交界。

メルトイユ伯爵夫人とバルモン子爵が服を整える。戦闘服である。

 

ふたりは、処女のセシルとトゥールベル夫人を堕とすことに決める。実行役バルモンの成功報酬は、メルトイユ夫人との一夜だった。成功の確認方法は、手紙の盗み見である。

 

女たらしのバルモンは、簡単にセシルを落とす。

しかしトゥールベル夫人は身持ちが固く、なかなか落とせない。相手のこころを揺さぶる手段をさまざま講じて、近づいたり離れたりを繰り返す。相手の気持ちが、徐々に寄ってくる手ごたえを感じていた。

 

いっぽうのトゥールベル夫人は「バルモンを好きだ」という感情を抑えきれなくなり、しかし結婚している身として不実はできない。板挟みになる。耐えられずに、夜中に逃げ出す。

 

驚いたバルモンは、トゥールベル夫人を追って再会し、ついに落とすことに成功する。このとき、バルモンは、女遊びではなく、真剣に好きになっていた。気持ちまで、夫人に寄っていった。しかし、バルモン自身は、気づかない。

 

証拠の手紙を用意せず成功の報告をしにきたバルモンを見て、暗躍していたメルトイユ伯爵夫人は「バルモンはトゥールベル夫人にほんとうの恋をした」と見抜く。この状態で成功報酬を与えることは、自分の品位を落とすことになるから、一夜を拒否する。それだけでなく、新たに愛人を作ってバルモンに見せつけた。「わたしと一夜をともにしたいなら、夫人と別れなさい。遊びだったんでしょう」。

 

バルモンは「it's beyond my control」を夫人に叩きつけ、別れた。この言葉を繰り返すバルモンの顔には、張り裂けるような表情が張り付いていた。自分に言い聞かせるようだった。

言われたとおり、メルトイユ伯爵夫人に別れたことを報告するも、一夜をともに過ごすことはしてくれない。約束を果たさないならば、宣戦布告ととらえるぞ、伯爵夫人に叫ぶ。

 

メルトイユ伯爵夫人「all right. WAR

夫人は、バルモンにたらしこまれた女を好きな男に、真実を告げる。

 

恨みを買ったバルモンは決闘に敗れ、死ぬ。間際にトゥールベル夫人への愛を自覚し、伯爵夫人とのゲームのすべてを世間にさらす。夫人との手紙を社交界に公開したのだ。

 

すべての黒幕、メルトイユ伯爵夫人はブーイングを浴びて、社交界から締め出される。

夫人は、化粧をぬぐう。戦闘態勢を解いた。

 

【感想】

主導権の奪い合いである。

最初はゲームだったのに、愛が加わって嫉妬が絡んで尊厳がかかわって、最後には全存在をかけた戦争に発展する。

 

外国人の顔と名前を覚えるのが苦手なので、最初のほうはなかなか世界に入り込めなかった。それでも中盤以降のぶつかりあいは圧巻である。

すごい。

三浦しをんさんの短編プチ指南

三浦しをんという名前を聞いたことのあるひとは、多いと思う。小説家である。

名前に聞き覚えがなくても、『舟を編む』という本の題名は聞いたことがあるだろう。この小説は、本屋大賞を受賞しており、映画化もされた。さいきんノイタミナでアニメ版も放送されもした。このどれかに触れたひとも多いはずである。

 

小説家が、どのように話を書いているのかを知ることは面白い。

まして、それが本屋大賞を受賞するような売れっ子作家だったなら、なおさら。

 

そんな三浦しをんさんが、webで「小説の書きかた」について連載している。

集英社Webマガジン『Cobalt』の「小説を書くためのプチアドバイス」であるhttp://cobalt.shueisha.co.jp/write/column-miura-shiwon/000543/

 

とくに第4回では、自作の「星屑ドライブ」を例に、どのように短編を構想したのか、順序立てて書かれている。売れっ子の作家が、Webで執筆過程をこれほど明らかにしているのは、あまりない。

興味深く読めた。

映画『草原の輝き』

『草原の輝き』

1961年脚本賞

最高である。

【見どころ】

 男と女を阻む真の敵対者はなにか。

 

【あらすじ・流れ】

をバックに、車のなかで男女が絡み合う構図でスタート。

しかし女性はキス以上に進展するのを拒む。男性はやりきれない想い。

 

女性が性交を拒むのは、母親の価値観を内面化しているからである。「軽い女に見られるから、結婚まではダメ」。母親は、娘のためを思って言っているのではなく、自分の体面を保つために言っていた。

男性は、もちろんシたい。しかし彼女のためを思えばこそ、嫌がっているのに押しつけることはできない。「結婚したらデキる……」という希望は、父親の反対によってかなわない。この父親も自分の意見を押しつけるばかりであった。

 

このふたりのジレンマは、男性の姉によって強調される。姉は、親の意見をつっぱねて自由に生きている。端的にいって、ヤリマンである。男を家に連れ込んで、ふたりの目の前で性を連想させる行動をとる。

 

男性は父親と話し合う。「大学に行け。卒業したら結婚してもいい」と父親がいう。「どうせ先に進めないなら、いまは会わないほうがいい。会ったら気もちが抑えきれない」。男性は彼女を避けるようになる。どんどんフラストレーションがたまっていく。

女性も、会えないことにフラストレーション。

 

この状況に男性は耐えられなくなる。ふたたびにきたとき、隣にいた同級生を、滝のなかで犯す。性が爆発する。

 

女性は、狂ったように取り乱す。長かった髪を自分でバッサリ切る。しかし鏡には、彼氏の写真……。別の男の誘いでパーティに行くと、そこには彼氏がいる。

車のなかで「シて」というも、彼氏は固辞する。拒否されて取り乱した彼女は、別の男の車で、滝の前へ。ヤラレそうになるが、逃げだしての上流に飛び込む。

 

男性が固辞した理由は、彼女を思ってのことだった。髪も切っていて、自暴自棄な様子。「私を傷つけて」と言われているようなものだった。拒否された彼女を追って、滝に飛び込んで救い出す。

 

女性の精神状態は酷かった。療養のために、地方の病院に行った。

いっぽうで男性は、大学に進学する。心配で何も手につかない。やがて食堂の女と仲が良くなる。父親は恐慌の痛手を受けて自殺する。

 

女性が病院を出る。母親は娘を抑圧しようとするも、父親が娘に助け舟を出す。女性は、かつての恋人のもとへ。

しかし男性は結婚しており、子供もいた。精いっぱいの虚勢を張って、「わたしも来月結婚するの」

 

【感想】

美しい。そしてラストが切なすぎる。

三回出てくる滝のシーンが、重要な意味をもっている。

冒頭の滝では、親の意思or自分の意思の対立を意味する。ここで女性は、内面化した親の価値観を選んでいる。これが物語を生み出す。

第二の滝では、現状に耐えきれない男性が、衝動に突き動かされる。女よりも、男のほうが先に自立することを暗示する。これがなければ、女性は精神を病まない。

第三の滝では、女が自立できないことを示す。滝から飛び降りること(=自分の決定)を阻止される。

女は精神病院での療養に送られる。ここで飛び込めていれば、死なないにしろ、展開が大きく変わる。

 

青春ただなかをふたりとも抜け出すと、ラストの静かな感動が生まれる。

 

最高だった。

 

映画『アパートの鍵 貸します』

『アパートの鍵 貸します』

1961年のアカデミー賞で、脚本賞を取っている。これから脚本賞受賞作品を見ていくことに決めた。

こういう映画が見たかったんです。

 

【見どころ】 

男性を主人公に進んでいくプロットと、女性を軸に進んでいく裏プロット。どこがどのように関係しあうのか。

 

【あらすじ・流れ】

恋愛や生活よりも、仕事の評価。
バクスターは自分の住む部屋を、不倫の場所として貸し出していた。
そんなとき好きな女性が現れる。その女性も、部屋を使っていた……
バクスターはどうするのか!

主人公のバクスターは仕事の評価をあげるために、上司5人に不倫場所として自分の部屋を提供する。

やがて、残された忘れ物から、想いを寄せるキューブリックも密会していたことに気づいてしまう。お相手は局長。

衝撃を受けながらも「彼女は局長のもの」と思い定めて、知らないふりをして局長に貸しつづけ、昇進する。

不倫という関係に耐えられなかったキューブリックは、クリスマスイヴ、睡眠薬を大量服用して自殺を図る。

昏睡している彼女を、部屋に帰って見つけるバクスター。懸命な看護で、なんとか救う。

「局長にまだ恋をしているの。間違った人に恋をする才能があるみたい。
なんであなたを好きになれないんだろう」
言い放つ彼女と、体力回復のため数日間一緒に過ごす。悲しいけれど、楽しい時間。カードゲームをする。
いくら言っても、局長は彼女に優しい言葉ひとつかけようとしない。それでも、彼女が好きな局長の悪口は言わない。彼女を守り続ける。

しかし局長の不倫が奥さんにばれて、局長と彼女が結ばれることに。猶予は、離婚成立までの6週間。
局長はいまだ彼女を愛そうとはしない。彼女は局長が好き。
どうにもならない状況に、バクスターは部屋を捨てることを決意。彼女を傷つけず、自分の感情にケリをつけるには、これしかない。仕事も放りだす。

大晦日、彼女は局長とパーティに。局長にケリをつけて、走り出す彼女。晴れやかな顔。
引っ越し間際のバクスターの部屋につく。カードを取り出して、バクスターを見ながら「まだ途中だったわ」
バクスターは見つめ返しながら、ついに気持ちを言葉に出す。「ずっと好きだった」
見つめあうふたり。カードを配る手を止めて、「あなたを愛しているんだ」
「黙って。カードを配って」
おしまい

【感想】

最高です。美しい。

小道具がとても印象的。
キューブリックが不倫相手であることに気づくとき:割れた手鏡
昇進をあらわすもの:帽子
局長からキューブリックへのクリスマスプレゼント:100ドル札
パスタの水切り:テニスラケット

バクスターも最高じゃないですか。
惚れた女が局長のものだったとわかっても、彼女の気持ちにズカズカ入り込んでいかない。
ただ懸命に彼女を守ろうとする。彼女に元気を出してもらおうと、局長を何度も説得しようとする。さびしげに後ろから見守る。
他人を好きな女の子。ままならない現実で、自分がぐっと飲み込んで、すべてを彼女のためになるように。

伏線が美しく構成されている。
こういう映画を見たかった。

『裸足の季節』

裸足の季節

http://www.bitters.co.jp/hadashi/theater.html

 

 

シン・ゴジラ』と『君の名は。』を見て、映画館で見るのと、家で借りて見るのではまったく違うなと実感した。

このふたつを機内で見た人は、損をしたといっていいだろう。最初だけは映画館で見てほしい作品だった。

 

さて、『裸足の季節』。500円で見られる機会があったので、スクリーンで見てきた。

女の子たちがかわいくて、透明感があったので、「ダメでも、まあいいか」という気軽な気もちで。

 

 

【流れ】

トルコの女性差別を題材に、その因習に疑問をもった5人姉妹を描く。視点は末っ子ラーレ。

 

5人は、自然な感情として、男の子と遊びたいし恋もしたい。自由に生きたい。

しかし、思春期のある時期に、突然それが抑圧される。その抑圧に対してどうするのか。

 

因習は三つの軸で強調される。ひとつは、一緒に住む叔父に代表される「男性による女性差別」。もうひとつは、育ての祖母に代表される「女性による女性差別」。最後は、田舎という「密接な地域関係」

 

ラーレに迫ってくる具体的な危機として、一番上の2人が強制的に結婚させられる。3人目は苦に思って自殺する。

危機から抜け出す方法として、ラーレには車の運転技術が与えられる。しかし、それは不完全。なぜなら、まだ一人では生きていけない歳だから。

抜け出す先として、イスタンブールに行ってしまった学校の教師。

 

結局ラーレは、結婚させられそうになった4人目の姉を伴って、イスタンブールの教師のもとへ。

ちゃんちゃん。

 

【感想】

悪くない。けれど、よくもない。

これで解決なのか。ラーレの動機は「自由になりたい」だけである。子供はそれでいい。しかし脚本で、因習のアンチテーゼとするには弱くないだろうか。

脚本がそのわがままをわがままのまま描くのには疑問である。姉の結婚式(=大人に変わる儀式)をぶちこわして、自分のわがままに付き合わせる。もちろん姉にも「自由になりたい」意識はあったから、独善とは言い切れない。ここで問題になるのは、「自由になりたい」の意味の差である。

ラーレの「自由になりたい」は、「大人になりたくない」に過ぎないのである。いままでののどかな日々が続くことを、わがままに希望しているだけなのだ。

そう考えたとき、「因習VS自由」というフェミニズムの文脈から外れて、「大人VS子供」という文脈の要素が強くなる。もちろん「因習=大人VS自由=子供」という対立をうまく作れば、これも可能であろう。しかしラーレは、わがまま娘として描かれる。失敗ではないだろうか。

単純なストーリーであるにもかかわらず、疑問が残る。なぜトラックの男性は、無償で助けてくれるのか。なぜ祖母の仲間たちは、少しも理解を示さないのか。

構造的暴力は昔も今もあったからこそ、青春期の女性たちはみな同じ道を歩んできたはずである。ラーレたちだけが特別なのではない。流れの一地点として、ラーレを位置づければ、もっとうまく表現できたのではないかと思う。

あまりよいとは思えなかった。

ただ、女の子たちはとてもかわいい。とくに脚がいい。体を密着させて笑いあってる姿は微笑ましい。くねらせながらベットから滑り落ちる姿は最高。絵はよかった。

北方謙三『水滸伝』

先輩からのおすすめ本。

 

北方さんの『試みの地平線』を読んでから、「北方兄さん」と呼ぶことにしている。『試みの地平線』は、人生相談を集めたものである。悩める男どもの横っ面を、北方兄さんが本音で張っていくさまには、はっとさせられる。

10代~20代前半が雑誌に投稿する悩みというのは、結局はよくあるものだけれど、それぞれはそれぞれの文脈で悩んでいる。その文脈に応じて北方兄さんがぶつかっていくのは、読み物としておもしろい。人生相談好きには進めたい一冊だ。

回答にはさまざまあれど、共通する根っこはおんなじである。「こんなところで打ち明けてないで、自分で抱えて悶絶してろよ。腹くくって引き受けろ。自分の人生なんだろ。そんなんで「生きている」って胸張れんのかよ。かっこ悪いぞ。かっこよく生きろ。男だろ」

悩んでる男には最高の薬だ。こういう叱咤激励は、なかなかしてもらえない。男どもはぶん殴ってもらうために、打ち明けている、と思う。ほんとうにありがたい。

 

「現実の世界では、なかなかいい男には会えないよ、いい男というのは小説の中にしかいないんだよ」http://www.shueisha.co.jp/dai-suiko/taidan-arakuremonotati/index3.html

 

さて、男たちの乱舞する物語が目の前にある。北方謙三水滸伝』だ。

集英社文庫から『水滸伝』19冊、『楊令伝』15冊、『岳飛伝』がでている。『岳飛伝』は2016年2月現在、毎月刊行中である。最終巻の17巻は2018年に出る予定。

なにげなく集英社HPを見てみると、いのうえさきこさんが「圧縮水滸伝」を描いていたhttp://www.shueisha.co.jp/dai-suiko/inouesakiko/。まるくデフォルメされた人物たちが、かわいい。

物語の大きな枠組みは、宋という国に対する反乱である。第一巻で、国というシステムに対して闘争すると目標を掲げる。腐敗した国家というのは、各部分を修正するくらいでは正すことはできない。全体を一気に変えるほかない。その実現のためには、多くの人材・期間・資金が必要である。だからこそ、長い物語になるぞと。

中心人物が二人いる。宋江晁蓋である。体制としての反乱側(梁山泊)を見るときには、この二人で説明できるだろう。蜘蛛の巣でたとえるとわかりやすい。宋江は全国に蜘蛛の糸を張っていくタイプである。透明で、全体がつながっている。晁蓋はその中心にいて、梁山泊という蜘蛛を大きくしている。なにかあったら戦闘に参加する。

基本的な作戦は、内線作戦である。物量に優れた宋に対して、梁山泊は精鋭で固まって応戦する。留意しておく必要があるのは、宋というものを倒すには、梁山泊側は必ずしも戦う必要はないということ。宋江は「兵力10万」説を唱え、本格的な戦闘は先延ばしをする立場だった。対して晁蓋は「兵力3万」説で、早くから戦闘する立場だった。

大戦略としては、戦わずに宋を倒すのが楽ではある。しかし相手からすれば、軍を使って早期に掃討すべき対象であった。ここに軍隊同士の戦いがおきる必然性が生まれ、人が生き、死んでいくさまがいきいきと描かれる。

 

水滸伝』は、男たちがかっこよく生き、かっこよく死んでいく、と説明される。少し違うように思う。

描写は淡々としている。人物たちが淡々と描かれるから、大きな余白が生まれる。そこを読者が、かっこよく脳内補正するのだと思う。

生きざまを描くときに必要なのが、変化である。北方水滸では、登場人物それぞれが変化している。その移り変わりを、ごく自然に描けているのが、すごいと思う。王母・王進のところに行けば、人間的に成長する。魯智真と会えば、社会とのかかわりを意識するようになる。それぞれのキャラクターに、人生がある。

個人の変化に加えて、集団も変化する。

つぎつぎと人が死んでいくのもリアリティがある。有力な将校として寝返らせようとしてきた楊志は、寝返って早いうちに死んでしまう。水師から軍師へと変わる予定だった阮小五は、軍師としての成長の途上に死んでしまう。「なんだか死にそうだけど、重要人物だから間一髪で切り抜けるだろう」という予想が外れていくのだ。

集団としての変化を描くのだから、人が死ぬだけではなくて、赤ん坊が生まれもする。楊志のこころは、楊令へと受け継がれる。『楊令伝』では、『水滸伝』重要人物の息子たちも出てくるらしい。

なんたって戦う相手が国家である。反乱する方が、反乱軍としての体裁を整えるまえに、潰そうとするのが当たり前である。普通に考えて、成功するとは思えない。

その点で、国家を裏から支える青蓮寺の視点を入れたのは大きい。それも青蓮寺が強いのだ。相手を強く描いているので、それに対する梁山泊も同等以上の存在として認識する。梁山泊の脅威度が増すにしたがって、青蓮寺が影の組織としての位置を脱しはじめ、政治軍事に口を出していくさまはリアルである。

もちろん一線がある。地方軍で梁山泊を抑えきれなくなったとき、精鋭中の精鋭である禁軍が出動する。しかし梁山泊は、地方軍以上ではあるものの、正規戦では禁軍には勝てない。非正規戦(重要都市の一時占拠)で、政治的なインパクトを狙う。反乱側には、正規戦を戦う準備として、まだまだ時間が必要だった。しかし、そううまく時間は稼げず、ガチンコ勝負を余儀なくされる。

梁山泊、落つ。

しかしそれだけでは終わらない。全国に広げられた巣は、柔軟である。『楊令伝』につながっていく。