白くま生態観察記

上洛した白いくまもん。生態日記。

ロバート・シルヴァーバーグ『夜の翼』

ロバート・シルヴァーバーグ佐藤高子訳)『夜の翼』(早川書房、1977年)。

ヒューゴー賞、アポロ賞受賞。

 

作りこまれた世界観。始まりと終わりが、とてもうつくしい物語だった。

 

【あらすじ・流れ】

この作品は、第1部、第2部、第3部に分かれる。

第1部:夜の翼

冒頭がうつくしい。〈翔人〉が蝶のような翼を広げて、夜闇へと羽ばたいていく姿。月明かりに照らされて華奢な裸身が幻想的に浮かび、しかし顔には「飛ばん」という決然とした表情が見てとれる。この飛翔の描写は、一読の価値がある。さらに〈監視人〉が、精神を宇宙に開放するさま! 一瞬で世界観に引きこまれるのだ。

物語は、〈監視人〉たる「私」の一人称で進む。

〈翔人〉〈監視人〉〈変形人間〉の三人は、一緒にロウムで宿をとろうとする。しかしとれない。ここにロウムの〈支配者〉たる皇帝が現れ、〈翔人〉に傷をつけるのと引き換えに宿を与える。

〈真実の口〉という、強制的に本音を喋らせる場所に行く。〈変形人間〉はじつは、他の星からのスパイだったことがわかる。私は侵略軍が近づいていることを確認する。ロウムを中心に戦うも、あっけなく侵略者に敗北する地球。征服される。私はみんなとはぐれる。

〈巡礼者〉と身分を偽った皇帝と連れ立って、私たちはペリに行く。

 

第2部:〈記憶者〉とともに

侵略された以上〈監視人〉は必要ではない。私はペリで〈記憶者〉というギルドに入ることにした。〈記憶者〉は、いまの言葉でいう歴史家・考古学者である。

第2部では、こうした世界が生まれるに至った過程を、私の勉強を通して学ぶ。

第1周期は、現代である。第2周期は異星との接触で幕を開け、地球は異星生物を集めた動物園を開いた。後進星から集めた生物にはひどい扱いをした。さらに天候の完全掌握を試み、地球を壊してしまう。

第3期に入る。崩壊した地球で、人類は〈翔人〉など特殊な能力・技能をもつもの同士で集まって、ギルドを結成した。地球を保つために、他の先進星から借款を行うも、返すことができない。このとき昔ひどい扱いをした後進星が裕福になっており、借款を全部買い取って、地球の所有を宣言する。「いつか絶対に征服し返してやる」。その星はまだ星間航行方法をもっておらず、いつか来る征服のため〈監視人〉が生まれ、〈防衛者〉がいたのだ。

そして現在、侵略者に征服された。

〈記憶者〉見習いとなった私は、連れの皇帝の色恋沙汰に遭う。皇帝を守ることで侵略者に抵抗しようとした私は、地球を裏切った。新たな連れとともに、〈巡礼者〉としてジョルスレムへ。

 

第3部:ジョルスレムへの道

〈巡礼者〉たる私の目的は、ジョルスレムでの再生であった。〈聖霊〉の審判を受けて、資格があれば、若返ることができる。

強欲な連れは再生に失敗するが、私は成功する。成功した私は、第1部の〈翔人〉と愛を交わす。

〈巡礼者〉の役割を終えた私は、征服後にできた新たなギルド〈救済者〉に入る。ここでは、侵略者も含めて地球上にいるひとたちすべての存在を〈救済〉することが目的だった。そのとき必要なのは、精神を飛ばすことのできる元〈監視人〉であったのだ。こころをひとつにすることが〈救済〉である。

〈救済〉場所に向かうため、〈翔人〉とこころを通わせ一緒に飛翔する。

 

【感想】

この作品はファンタジーだ。しっかりと世界観を構築している。まったく新しい世界を、ここまで奥行深く構築しているのはさすがである。(じつをいうと、この世界観を借りたと思われる児童文学に心当たりがある。)

始まりと終わりが、とてもうつくしい。映像が浮かぶ。描写がうまい。

もしかすると、侵略されてから第2部の途中までは少し退屈かもしれない。しかしそこを乗り越えると、あとは物語がぐいぐい引っ張ってくれて、最後に感動が待っている。

キリスト教の物語からとっていると思われるが、残念ながら詳しく知らない。もう少し深い読みができたのに、とも思う。 

江國香織『泳ぐのに、安全でも、適切でもありません』

江國香織『泳ぐのに、安全でも、適切でもありません』(集英社2005年)。

山本周五郎賞受賞作。

 

さらさらと、こころにしみこんでくる短編集である。私の一人称で、切り取られた世界の断片。

 

「うんとお腹をすかせてきてね」「ジェーン」「犬小屋」が好みだ。

男と私だけのくすりとしてしまうような決まりごと。なるようになっているのだか、なっていないのだか、よくわからない女友達との日々。さようならのいえないさようなら。

 

こころの内側に、するりと入りこんでくる。

 

現実に息づいていて、それでいてふわっとした手触りの作品である。

 

「短編は完璧な構成を楽しむもの」と思っている私にも、肩ひじ張らない語り口は、するすると読ませてしまう。

夏の夕暮れ、縁側で息をついていると、隣に座った「私」がゆったりと語りかけてくる感じだった。

映画『ララランド』

ララランド

 

現在公開中の映画である。先日のアカデミー賞で、今年度最多受賞作品。

それに恥じぬ作品だった。

※上映中の作品は書かないようにしようと思ったのですが、自分のためのメモなので書いてしまいます。それに呼応して、あらすじは最後にもっていきます。

 

【感想】

一年前、薦められてデミアン・チャゼル監督の『セッション』を見た。細部は思いだせないものの、ラストが印象的な作品だった。公演の最中、ドラマーと指揮者の言葉のないぶつかり合い。高みに上っていくドラマー。狂気が映像化されていた。

ひとつ。途中の唐突な交通事故は主人公を困らせるために仕組まれたのがバレバレで、少し気になる脚本ではあったが。

 

さて『ララランド』。この三つが正直な感想だ。

1ダンスと音楽の相乗効果がすごい。2エマ・ストーンの演技がすごい。3悲しいハッピーエンド。

1見た人ならうなずけるはずだ。いきなり始まるダンス。音楽。途切れさせないカメラワーク。すごいんだこれが。

2エマ・ストーンすごい。もうすごい。圧巻なのが、男のライブに行ったとき。「夢がかなったんだね……違う……楽しんでない……嘘だ……こんなあなたを見たくない」。これをすべて無音で表現する。ほかにもいろいろあるが、ここはすごい。

3ふたりは、夢を実現する。ハッピーだ。しかしふたりは別々の人生を歩んでいる。悲しい。弾かれたピアノで、昔のようにふたりだけの夢の世界に行ける。愛は終わっていないハッピーだ。しかし隣にいるのは別の男。悲しい。

 

正直に言って、脚本自体は既視感がある。芸術を目指す男女の、よくあるラブストーリーだ。そこは狙っていないのだろう。

ただ、ここまで自然に映像と音楽を融合させたものは、記憶にない。極上のミュージカルだった。

劇場を出ても、音楽が耳に残る。またダンスを見たい。美しいものを見た。

 

【あらすじ・流れ】

女優を夢見るエマ・ストーン。ジャズ喫茶をもつことを夢見る男。

 

渋滞した高速で出会ったふたりは、何度も顔を合わせる。パーティからの帰り道、ふたりはごく自然に踊りだす。波長が合っているのだ。

ストーンはそのとき付き合っていた恋人を捨てる。付き合うようになったふたりは、プラネタリウムで空を飛ぶ。ふたりなら、どこまでも行ける。夢を語り合う。

 

同棲し結婚も意識するふたり。男は「安定した収入」のために、嫌いな相手と嫌いな音楽をすることを選ぶ。成功してしまい、今後何年ものライブ生活が予想された(このライブに行ったときのストーンは必見)。

 

この状況を見て、ストーンは「ほんとうのあなたじゃない。嫌いな相手と嫌いな音楽をするの?」と言う。男は「仕方ないじゃないか。君のためだ」。誕生日に、ふたりのあいだに決定的な裂け目ができる。

男は、自分が間違っていたことに、写真撮影会で気づく。

 

ストーンは、自作の舞台で大失敗。いままで頑張ってきたのに......絶望する。男の謝罪を受け付けられる状態ではなく、「it's over」の言葉を残して地元に帰る。

 

男と女は別々に絶望していた。男のところに、ストーン宛の電話がくる。舞台を評価した制作陣からオーディションを受けてほしいと。

男はストーンの家に押しかけ、クラクションをブ―――と鳴らす。いままで、男と女を結びつけてきた音である。ストーン「わたしもうダメ。つぎ失敗したら立ち直れない。平凡に生きていくわ」。弱気なストーンに「来るのか来ないのか」と突きつける。

 

ストーンは行くことにした。もう自分を着飾る必要はなく、「あなたの話をしてください」との課題に、歌って答える。このメロディ……泣けるから劇場で見て。

 

男は「きみは受かるよ」と確信する。しかし夢の実現は、ふたりを引き裂くことになる。

ストーンは、オーディションに通ったら7ヵ月はフランス暮らしで、そのあとはもっと忙しい。男は、自分のジャズ喫茶をもつことで忙しい。もう、いままでのように会える時間はない。

 

ふたりは「ずっと愛してる」の言葉で、別れる。

 

5年後。

ふたりとも成功し、自分の家族をもっている。

 

ストーンは夫とともに、外へ。ふとピアノの音が聞こえてくる。入ってみると、彼のジャズ喫茶だった。

 

彼はひとめでストーンを認識し、「ようこそ」と。ふたりのあいだに言葉はいらない。最初に出会ったときのメロディを弾きはじめる。最初はさみしく、途中は劇的に、最後はさびしい。

 

このメロディの最中、ふたりは、ふたりだけの世界に入る。演奏が終わったら、おしまいの世界。

出会ってからのことがすべて思い返される。それは、ふたりが途中で絶望することのなかったストーリー。昔のミュージカルのような、夢の世界のお話。ふたりの最後のダンス。

 

さいごに、惜しむように目線を交わす。

映画『眼下の敵』

眼下の敵

 

戦争映画が好きだ。

極限状態での人間を見るのは、快感である。

初めて見る、眼下の敵を前にして、どうするのか。

 

【あらすじ・流れ】

第二次世界大戦時、アメリカ水上艦とドイツ潜水艦の戦い

 

水上艦の艦長は、元民間人である。自分の商用船がUボートに沈められ、一緒に乗っていた妻を亡くした。艦長室にこもっているため、船員にはさげすまれていた。

しかし艦長は敵を恨んではいない。こころを押し込めていた。「敵も軍人としてやったんだ。こっちも軍人としてやるべきことをやるだけ」

 

潜水艦の艦長は、第一次世界大戦からUボートに乗っていたベテラン軍人である。息子ふたりを戦争で亡くしていた。親しい友人に「こんどの戦争には、大義がない」(大意。打ち明ける言葉は、名言ばかりだった)と漏らしていた。

 

潜水艦が浮上航行をしているのを、水上艦のレーダーが発見し、両者は戦闘状態に入る。

 

潜水艦と水上艦の双方は、相手が見えないながらも、相手の考えを読むように動く。動く。動く。片方が先んじれば、もう一方がうまく次の手を打つ。潜水艦の進路が固定されているため、ハンデとなっている。

 

そのやり取りのなかで、敵への信頼が芽生えてくる。

 

最後。水上艦は捨て身の作戦で、潜水艦を沈めることに成功する。両方とも沈むことになる。

船員たちは救命ボートに乗って逃げる。

 

沈没するまえ、双方の艦長は互いに敬礼する。

潜水艦の艦長は、動けない仲間とともに死ぬことを覚悟した。

それを見た水上艦の艦長は、ロープを投げて彼等を助ける。眼下の敵を助けたのである。

 

【感想】

いまの日本人が想定するほど、意外と敵と味方が峻別されないものである。

もちろん概念上、敵は敵なのだが、それだけではない。

眼下の敵をまえに、どうするか。

映画『ユージュアル・サスペクツ』

ユージュアル・サスペクツ

 

1995アカデミー賞脚本賞

 

叙述ミステリーを、映像で描くとこうなるのか!と素直な驚き。すごい。

 

【あらすじ・流れ】

謎の黒幕であるカイザー・ロゼが、キートンを殺すシーンから始まる。船が炎上する。

それを影から見ていた生還者キントの証言で回想がされる。

 

映像化される時間軸は

現在1:回想を述べるキントと警察官

現在2:病室にいるもうひとりの生還者

過去:キント、キートンを含む5人の容疑者の動き

 

きっかけは些細なできごと。キートン、キントを含む前科者5人が容疑者として逮捕される。

キートンの恋人兼弁護士の働きで、釈放される。しかし獄中で、ヤバい金儲けの仕事をする話し合いがされる。

 

金儲けで、頭脳的な中心になったのはキートンだった。ひとつの仕事のはずだったが、ずるずると続けることに。そのうちカイザー・ロゼの手下コバヤシが現れ、メンバー5人の恋人・家族を人質に仕事を依頼する。

 

カイザー・ロゼは決してしっぽをつかませない。人相も不明。警察にも社会にも強いパイプを持っているらしい。伝説の犯罪者である。逃げようとしたひとりは、あっさりと殺される。

 

頼まれた仕事は、敵対組織の麻薬密売の阻止だった。船で運ばれている麻薬を、船ごと焼き払え。

ひとり欠けた5人組は、なかにいたやつらを皆殺しにする最中に気づく。

 

「この船には、麻薬がない」

 

カイザー・ロゼの目的は、自分の人相を知っているやつを殺すことだったのだ。冒頭につながる。

 

こうした流れのところどころで、キントを尋問する警察官の描写がされる。キントは釈放が決まっていて、任意の供述である。これらの話を聞いた警察官は「キートンこそが、カイザー・ロゼだ」と判断する。「彼は本当に死んだのか」いや生きてるはずだ。

 

もうひとりの生き残りは船の爆発に巻き込まれ、やけどの重傷である。瀕死の証言から、警察はカイザーロゼの人相を割り出す。

 

キントは尋問が終えて、警察署を出る。

 

そこで警察官は、気づく。

コバヤシは、手にしているコップのメーカーである。話の要所に出てきた名前は、それぞれ壁に貼ってあるメモの名前である。キントは、やけに落ち着いていた。

 

人相書きが、FAXで警察署に送られてきた。キントの顔だった。

 

「俺を甘く見るなよ」。そういっていた警察官は、自分が甘く見られていたことに気づいた。

カイザー・ロゼは、街中に消えていった。

 

【感想】

叙述トリックである。サスペンス映画に分類されるのではなく、ミステリー映画に分類されるべき。

カイザー・ロゼという大黒幕は誰なのか。これがテーマとなる。

証言では、キートンがカイザー・ロゼであるかのような誘導がされる。映像はキートン視点で描かれる。警察官も、キートンが死んだように見せかけて罪を逃れた事実を挙げ、「今回も死んではいないのではないか」と推理する。キートンこそがカイザーなはずだ。

見事である。

物語の中盤にくると、カイザー・ロゼは誰なのか。何の目的があるのか、ということが映画で描かれることがわかる。

ミステリーのお約束として、いままでに出てきた人物以外は、カイザー・ロゼなわけがない。5人組のなかの人物がカイザーなのか。それならばキートンだ。

もしかして警察にもパイプがあるようだし、警察官ではないか。それならば取り調べをしているやつだ。

いやもしかしてコバヤシという人物ではないか。いやキートンの恋人も怪しい。

見る人の推理が拡散していくように仕組まれている。うまい。

 

拡散した推理が、ラストで一点に集約される。美しい。

カイザー・ロゼの正体を知ったら、もういちど映画を始めから見たくなる。なるほど、あれは伏線だったのかと。

映画『レインマン』

レインマン

1989脚本賞

すばらしい脚本。ゾクゾクする。

 【見どころ】

主人公の欠点は何か。欠点を生んだ原因は何か。欠点を補う装置は何か。どう行動が変わるのか。お手本のような作品。

 

【あらすじ・流れ】

他人は自分のために利用するものと思っている主人公。その場しのぎで嘘をついても悪気なし。

ゆがんだ価値観の背景には、父親に見捨てられたと感じてから、愛を感じられないことがあった。

父親の死で巨額の遺産=300万ドルが手に入ると思ったが、遺言状の内容で主人公には残されないことが判明。

これに不服な主人公が相続先を探すと、いままで存在を知らなかった兄がいたことが判明する。兄は精神病院にいた。サヴァン症候群であり、社会生活は難しい。その分、記憶力と計算力は抜群である。そこの先生が後見人として管理していた。

 

主人公は、兄のレイモンドを人質に連れ出して、遺産をよこせと交渉することにした。裁判に持ち込むぞと。半分の150万ドルはこっちのものだ。

 

主人公は、兄の世話を恋人に押し付ける。しかし恋人は、他人を利用する態度に嫌気がさし逃亡する。主人公は、150万ドルをひとりで世話せざるを得ない状況に。

 

兄は、飛行機に乗れない。高速に乗れない。食事は曜日ごとに決まったものしか食べない。決まったテレビを見なければならない。雨の日は外に出ない。

 

これらに対応する主人公は、自分の事業のため、普通の道で3日かけて大陸を横断する必要にかられる。事業はパー。

その途中の宿で、風呂の水を張るときに、兄が奇声を上げる。

驚いた主人公は、兄のつぶやきから衝撃の事実に行きつく。

 

兄はレインマンだった。

主人公の生まれたときの家の様子を、完全に記憶していた。

 

主人公は自分に対する親の愛を確信する。兄の記憶を通して。兄への愛が芽生える。靴を脱がせた。

主人公は恋人に謝る。他人を利用するだけの存在とは見なくなった。

 

そこから兄をさげすむだけではなく、兄の美点を生かして一緒にカジノで財産をあげる。

 

最後は兄も主人公を「メインマン(親友)」と認めて、冗談をいうように。

主人公は兄を金とは交換しない。「つながってるんだ。たった一人の肉親を、どうして取り上げようとする」

 

【感想】

完璧な脚本である。すばらしい。

家族愛を感じずに育ち、他人に敬意をもてない主人公が、サヴァン症候群の兄と旅をすることで、特有の記憶力に保存された家族愛に触れ、兄弟でこころが通じるようになる。そうなったとき、主人公は、他人に嘘をつかず経緯をもてるようになった。

宮下奈都『羊と鋼の森』

宮下奈都『羊と鋼の森』(文芸春秋、2015年)。

2016年本屋大賞受賞。

 

大学4年、オーケストラをやっている友人に誘われて、はじめて生のクラシックに触れた。

プログラムが本棚にある。合計三冊。

 

あと1週間と少しで、もう一冊加わる。大学生最後は、クラシックの年だった。

 

そういえば、と思って、『羊と鋼の森』を読むことにした。

 

新米の調律師の物語。僕という一人称で進んでいく。

 

美しい物語だった。

 

【あらすじ・流れ】

調律の世界に入るのは、ふとしたきっかけだった。たまたま学校のピアノを調律する様子を見ていた。その調律師の作る音に、「僕」のすべての感覚が揺さぶられる。居場所を見つけた気がした。

 

調律師になって、先輩について家を回っているとき、仲良くなった高校生のふたごの家で、はじめて調律をする。否、してしまう。

「ほんの少しだし、見習いといっても1年たっている。できるだろう」

できなかった。

できるわけがなかった。僕は打ちのめされる。自分ひとりでは、なにもできない。

 

数年たって、調律を任されるようになる。しかしどこか先輩たちの域には達しない。どこがどう悪いのか、どうすればうまくなるのか。模索が続く。

 

そんなとき、ふたごの片方がピアノを弾けなくなってしまう。精神的なものだろう。「僕」にはどうすることもできない。片方が弾けないから、もう片方も弾かない。だれも弾かないから、調律もキャンセルされる。

 

弾けなくなったほうは妹。弾かなくなった方は姉。

 

やがて姉が弾くようになった。

先輩とふたごの家の調律に向かう。僕は、最初のころとは違うところに目が行くようになっている。部屋のなかでの、音の響き具合だ。調律は、ピアノだけに向かうものではない。ピアノがだす音の響き具合は、それぞれの環境でまったく変わってくる。しかし、僕は調律しない。

 

先輩が調律したピアノ。

姉が弾く。

 

湧き出す音。ピアノが息を吹き返す。

姉「ピアノを食べて生きていくんだよ」。

 

ふっきれた姉の演奏を聴いて、店のみんなは、こころが揺さぶられる。

妹は「ピアノをあきらめたくないんです。調律師になります」。

生きる場所を見つけて、それぞれが頑張る。

 

 

憧れの先輩に「なにがあったんですか」「急によくなりましたね」「音が澄んでいます」と言われる。自覚はないが、よくなったのだろうと、僕ははっとする。

 

先輩の結婚式で、ふたごの姉が演奏することになる。先輩ではなくて、僕がやります、やりたいです。

式場のピアノを調律する。最高の出来に仕上げた。

しかし考慮が足りない。たくさんのテーブルクロスが入っただけで、音の響きが変わることを考えなかった。

ただ、僕は成長している。ピアノを最高の状態にするのではなくて、お客さんが聴いたときに最高の音になるように調律しなおす。たくさんの人が入っても大丈夫なように。

ピアノの演奏はうまくいく。

憧れの先輩から改善点を指摘される。はじめて、技術的なことをいわれる。

ぼくは成長している。しかし道のりは長い。