白くま生態観察記

上洛した白いくまもん。観察日記。勝手にコルクラボ

ウィリアム・L・デアンドリア『ホッグ連続殺人事件』

ウィリアム・L・デアンドリア(真崎義博訳)『ホッグ連続殺人事件』(2005年、早川書房)。

 

【あらすじ・流れ】

ある町で、連続殺人事件が発生した。不可能としか思えない状況で、だれにも姿を見られずに完全犯罪を遂行していく。被害者はバラバラ。殺人を行ったあとには、かならずHOGの名で声明文が届く。

この連続無差別殺人に、町は恐怖に包まれた。「なぜわれわれがそんなめに? 人々は神に尋ねたが、答えは得られなかった」

この犯人はだれなのか。

 

【感想】

まず注意を。登場人物が多く、また覚えにくい名前である。読み進めていけばわかるが、登場人物をたどる必要はない。ストーリー・トリックを楽しむのが主だから、人物名はまったく覚える必要はない。

描かれるトリックは、爽快である。盲点を突かれる。美しいトリックに、最後の一文の余韻。

とてもよかった。

 

 

【トリック】

最後の一文がすべてを示している。

「みんな神の手(Hand Of God)で殺されたのだ」

HOGとは神のことだった。

完全犯罪の数々は、神の手、すなわち偶然に過ぎなかったのだ。看板が落ちてきたり、つららが落ちてきたり。冒頭2ページ目に「なぜわれわれがそんなめに? 人々は神に尋ねたが、答えは得られなかった」と書かれているが、壮大な伏線だった。

犯人は、偶然によってもたらされる死をHOGの名で後づけすることで、あたかも殺人鬼がいるかのように偽装した。

殺人鬼と犯人は、別々だった。

犯人の意図は、偶然による死(それなりの町なら、毎日ひとは死んでいく)にHOGの名で一貫性を持たせて、連続殺人の文脈に置こうとしたことにある。この連続殺人は、動機も対象も固定されない無差別殺人だったから、そのなかに自分だけの殺人計画を紛れ込ませようとしたのだった。

 

吉本ばなな『キッチン』

吉本ばなな『キッチン』(角川書店1998年)

 

大事な誰かをなくしたひとたちの短編集。3篇おさめられており、表題作は連作である。残るひとつは「ムーンライト・シャドウ」である。

初期の作品だということからわかるとおり、文章には拙さが見られる箇所もある。しかしそれ以上に、光るものがある。こころのなかを描くのが、とてもうまい。

 

【あらすじ】

 

「キッチン」

唯一の親戚である祖母を亡くした私は、死を受け入れられない。キッチンだけが安息の場所だった。成り行きで田辺雄一の家に居候することになり、その「母親」とも交流していくうち、死を受け入れられるようになる。「自慢の祖母でした。」

 

「満月――キッチン2」

ひとりで生活するようになった私は、「母親」の死を知らされ、雄一の家に泊まる。家族でも恋人でもない関係は、ここちよい。雄一を好きな女性から「おかしい」と突きつけられる。私は仕事で泊まりの出張に行くことになる。

いっぽうで、悲嘆にくれる雄一は逃げた。遠くに旅行に行った。主人公はここちよい友人(責任を負わなくてよい)の立場ではなく、恋人として関係をもつ決心をしてカツ丼を届ける。

 

「ムーンライト・シャドウ」

恋人を事故で亡くした私は、恋人の弟と交流しながらふっきれない日々を送っている。ある女性との導きで恋人ともう一度会うことができ、ふっきれた。

映画『ミッドナイト・イン・パリ』

ミッドナイト・イン・パリ

 

アカデミー賞脚本賞受賞。

 

わかりやすい流れ。いいアイデア、いいひねり方、いいオチのつけ方。

 

【あらすじ・流れ】

主人公のギルは、フランスに婚約者家族と旅行に来ていた。1920年代のフランスが最高だと思っていて、作家になりたかった。婚約者とは価値観が合わない。婚約者は、未来を夢見ていた。

 

ある夜、12時の鐘がなるとき、目の前に昔の自動車が現れる。

酔っていたギルは、中から誘われて乗った。

 

そこは1920年代のフランスだった。

パーティ会場には、夢にまで見た人物たちがいる。フィッツジェラルドコクトーヘミングウェイピカソ。会場を離れ、ひとりで外に出ると、現在に戻る。

自作の小説の評価をもらいに、毎夜訪れることになる(婚約者がいるから、毎日戻る必要がある)。才能があると評される。

やがてアドリアナに恋をしたギルは、彼女を伴って外に出る。

同時代人と一緒なら、現在に戻らない。

 

しかしその途上、さらに昔の馬車が通りかかる。それに乗るふたり。

そこはアドリアナが夢見るベルエポックの時代だった。入れ子構造である。

アドリアナが熱中するのを見たギルは、状況を客観視する。そして気づく。過去に憧れる行為には、際限がないのだ。その時代に慣れると、もっと昔に憧れるだけである。その繰り返しだ。

 

つまりギルは、現在の重要性に気づいた。

いままでは婚約者の不倫から、目を背けていた。作家になりたいという願望を、直視してこなかった。パリに住みたいという夢を、見ないようにしていた。

過去への執着をあらわすアリアドナと決別し、現在に帰る。

 

現在に戻ったギルは、これらすべてを清算する。婚約破棄。作家を目指す(腕は認められたのだ)。パリに残る。現在を充実させることを選んだ。

 

そうしたとき、ギルが歩く隣には、「雨のパリが一番好きなのよ」という女性がいた。

 

 

【感想】

過去に憧れる青年が、過去に憧れるのは現在への不満の裏返しであることに気づき、その現在を充実させることを選び取る物語。

 

ショートショートや短編小説を読んでいるかのような作品だった。キレっキレである。

サイドストーリーとして、婚約者の父が毎夜いなくなるギルを怪しんで探偵をつける。ギルをつけて1920年代に行った探偵は、そこでとらえられる。みたいなものもあった。婚約者家族は現在への不満と未来を象徴するので、まあ捨象していいでしょう。

映画『百円の恋』

『百円の恋』

 

日本アカデミー賞最優秀脚本賞受賞。

 

前半はとにかくつらい。つらすぎて正直見ていられない。見ていられないと思った人は、1.5倍速でみることをお薦めする。ここを乗り越えれば、すごいものが見られる。

中盤からの疾走感はすごすぎる。

 

打ち込むものを見つけたとき、ひとは、ここまで変われる。

 

【あらすじ・流れ】

主人公は、斎藤一子。32才独身、ニートで実家暮らし、家の手伝いもせずテレビゲームに興じる。ただ息をしているだけのごくつぶしだった。

 

あるとき、しっかりものの妹と喧嘩し、家を出ることに。コンビニでアルバイトを始める。

 

コンビニで近所のボクシングに所属する男と知り合いになる。男と仲良くなり、男の試合でボクシングに興味が出てくる。ためしに入会する。

 

男は一子と同棲をすることになった。試合で負けて、ボクサーの夢をあきらめた。やがてボクシングを始めた一子と一緒にいるのがつらくなり、男は家を出る。

 

一子は家を出た男が気になるも、ボクシングに打ち込む。自分がやりたいことを見つけたから、周りにも積極的にかかわれるようになった。

プロ試験に合格し、対戦もしたいという。まっすぐな目、ひたむきな練習。コンビニで気に食わない相手に歯向かい、アルバイトをクビになる。

 

対戦が決まり、男にも見に来てほしいと告げる。

髪も短くし、いざ対戦の日。

もう目線は、ボクサーそのもの。「一発も当てられない。そんなにあまくないぞ」と言われても、どうしても出たかった。みんなが来ているまえで、ボコボコにやられる。

「一発くらい入れてくれよ」周りの声。応えるように、さいご、一発だけ当たる。

 

返されて、見事に負ける。「好きな、試合だった」と認められる。

 

男のまえで「勝ちたかった」と大声で泣く。ふたりで帰る。

 

【感想】

前半の描写からは目をそむけたくなる。どこかの下町にいそうな設定で、映像にもカメラにもドキュメンタリー風味がある。

髪をつかんで喧嘩して、頭にケチャップひっかけられて、ボソボソ声で面接に挑んで。男に誘われた動物園、「なんでわたしなんか」「断られそうになかったから」。しまいには、レイプされてしまう。処女である。

 

しかしボクシングを始めてからは、まったく違う。男がいなくなっても、ひとりで続ける。拒絶された男に対して、見に来てほしいと必死に走る。内面が変わ