白くま生態観察記

上洛した白いくまもん。観察日記。勝手にコルクラボ

福永武彦『草の花』

福永武彦「草の花」『福永武彦全集 第二巻』(新潮社、1987年)。

 

とりとめもない思考の渦を書き連ねているだけのブログに、コメントが付いた。「福永さんの『草の花』は京大生みんな読むべし」とのことだった。こういうお薦めは、ありがたい。

 

お薦めされたものは、できるだけ早いうちに読むことにしている。そしてその人に届くように感想を書く。このブログも例外ではない。読むべき文献・小説・映画・音楽などが積み重なっていく毎日なので、確約はできないが努力する。

 

【感想】

この本を薦めてくれて、ありがとう。

『愛の試み』と一緒に読むべき本だった。

 

「「孤独」に価値を求めて、以てその代償として愛に失敗した」

汐見は孤独に価値を求めたというよりも、存在として孤独だったんだと思う。自分の世界でしか生きていない人間だった。他人はどこまでも他人。しかし愛が一時的につないでくれるはずだった。

孤独に価値を感じていたのではなくて、孤独と孤独をつなぐ「愛」に価値を感じていた。

存在として孤独なのだから(常に意識していたから)、当然、「愛」も通常の意味ではない。精神的な、自分ひとりの「愛」だった。

だからこそ、汐見だけの「愛」は、藤木にも千枝子にも受け入れられなかったのだ。

 

描写が恐ろしいほど冷たく尖っていて、ほんとうに素晴らしかった。最後に名言を抜き出した。

 

ここまで書いて、ある人と『ララランド』のラストの評価が分かれたことを思いだした。

相手が「最後悲しい終わりかただったよね」と言ったのに対して、ぼくは「道は違っても、一緒にいる相手が違っても、数年後たまたま会って目線を交わした瞬間に、昔のようにダンスを踊れるんだよ。ふたりはつながっているんだ。充分幸せじゃないか」と言った。「そんな精神的なもの......」と相手は言った。

ぼくは汐見に似ている。

 

【構成】

冬:サナトリウムに汐見という男がいた。彼は生をあきらめている風で、ただ小説を書いていた。ほとんど自殺のような形で彼は手術中に死んだ。彼の死後、託された二冊のノオトに記された小説が以下で明かされる。

 

第一の手帳:高等学校2年の汐見は、1年生の藤木という男を愛していた。しかし藤木は愛に応えようとはせず、汐見を避けるようになってしまった。苦悩し悶々とする日々。部活の合宿でようやく藤木を話す機会をえるも、ほどなくして藤木が死んでしまう。

たった1年だけ深く接し、愛した藤木。想い出だけが浮かぶ。

 

第二の手帳:汐見はあるひとりの女性を愛した。藤木の妹、千枝子である。

会って話したりコンサートに行ったりするうちに、千枝子は悟る。彼はわたしという生身の人間を愛しているのではない。わたしを通して、理念としての愛や死んだ藤木兄さんへの愛を確かめているのだ。彼の目に、わたしは写っていない。

 

千枝子「わたしたち、もう会わないほうがいいんじゃないかしら」。この言葉で、ふたりは会わなくなる。

最後に一回だけ森のなかで会うも、汐見は千枝子との行為に没頭することができない。そのときであっても、孤独なままだったのだ。千枝子は逃げ、ふたりは完全に切れた。

 

春:千枝子に、汐見の訃報を手紙で知らせた。その返答の手紙が明かされる。ああ、なんという悲哀だろう。

 

【好きな言葉】

「第一の手帳」

本当の友情というのは、相手の魂が深い谷底の泉のように、その人間の内部で眠っている、その泉を見つけ出してやることだ、それを汲み取ることだ。それは普通に、理解するという言葉の表すものとはまったく別の、もっと神秘的な、魂の共鳴のようなものだ。僕は藤木にそれを求めているんだ。(汐見)

僕はどこにいても、自分の存在が余計なような気がするんです。自分の孤独は仕方がないけど、ひとにまで迷惑を掛けようとは思わないから。(汐見)

相手をより強く愛している方が、かえって自分の愛に満足できないで相手から傷つけられてしまうことが多いのだ。しかしそれでも、たとえ傷ついても、常に相手より靭く愛する立場に立つべきなのだ。人から愛されるということは、生ぬるい日向水に涵っているようなもので、そこには何の孤独もないのだ。靭く人を愛することは自分の孤独を賭けることだ。たとえ傷つく恐れがあっても、それが本当の生きかたじゃないだろうか。孤独はそういうふうにして鍛えられ成長して行くのじゃないだろうかね。(先輩)

僕は誰も愛し得ないんです。僕は愛するということの出来ない人間なんです……愛するというのは自分に責任を持つことなんでしょう、僕にはその責任が持てないんです……それでなくったって、僕等は先天的に愛すべき人を与えられているんです、両親とか兄妹とか……ね、僕は与えられたものだけでも荷が勝ちすぎているんです。この上、何も自分から進んで人を選ぶなんてことが出来る筈もないでしょう(藤木)

無力です、僕なんかそれにとりわけ弱虫なんだから。でも僕の孤独と汐見さんの孤独と重ね合わせたところで、何が出来るでしょう? 零に零を足すようなものじゃありませんか?(藤木)――孤独だからこそ愛が必要なのじゃないだろうか?(汐見)

僕等が、存在することによって他者に働きかけるように、既に存在したものも、依然として生者に働きかけるのだ。一人の人間は、彼が灰となり塵に帰ってしまった後に於ても、誰かが彼の動作、彼の話しぶり、彼の癖、彼の感じかた、彼の考え、そのようなものを明かに覚えている限り、なお生きている。そして彼を識る人々が一人ずつ死んでいくにつれて、彼の生きる幽明界は次第に狭くなり、最後の一人が死ぬと共に、彼は二度目の、決定的な死を死ぬ。

 

「第二の手帳」

僕には外側の現実なんて問題じゃない、内側の現実だけが問題なんだ。

一番頭にあるのは千枝ちゃんのことだよ。――だってあなたの言う千枝ちゃんは、あなたの頭の中にだけ住んでいる人よ、このあたしのことじゃない……あなたは夢を見ている人なのよ

甘いとか甘くないとか、そんなことは問題じゃない。その人の魂にしんから訴えて来る音楽が、その人にとって一番いい音楽だ

僕は、愛すれば愛するほど孤独であり、孤独を感じれば感じるほど千枝子を愛しているこの心の矛盾を、自分にも千枝子にも解き明かすことが出来なかった。

普通にはそうなんだろうね、孤独というのは弱いこと、人間の無力、人間の悲惨を示すものなんだろうね。しかし僕はそれを靭いもの、僕自身を支える最後の砦というふうに考えた。傲慢なんだろうね、恐らくは。

それで寂しくはないの――寂しいさ、それは。しかしそれでいいのだ。

あたしは汐見さんが御自分のことを孤独だとおっしゃるのを聞くたびに、身を切られる思いがするの。あなたがどんなに孤独でも、あたしにしてあげられることは何にもないんじゃないの。――君が愛してさえくれればいいんだ――愛するといったって、……ねえ汐見さん、本当の愛というものは神の愛を通してしかないのよ

僕はそうして千枝子を抱いたまま、時の流れの外に、ひとり閉じこもった。僕はその瞬間にもなお孤独を感じていた。いな、この時ほど、自分の惨めな、無益な孤独を、感じたことはなかった。どのような情熱の焔も、この自己を見詰めている理性の泉を熱くすることはなかった。

 

「春」

わたくしはあの方を愛していればいるほど、本当の愛はかえってあの人から離れることにあるのだと考えました。この気持ちは苦しゅうございました。

坂口安吾『堕落論』と、なにか。

無意味なことをして生きたい、という気もちが抑えきれなくなってきた。

講義に出るよりも、図書館に閉じこもって本を読んでいたい。就職のため勉強するよりも、京都の街中で思索にふけっていたい。誰かと会うよりも、下宿に閉じこもって自分と対話し続けたい。

 

ぼくの大学院では、講義に出ることが就職につながってしまう。哀しいかな、ここを選んだ宿命である。

そんなことをするよりも、宗教学や哲学、芸術の講義にもぐっていたい。

 

 

今日は講義が始まる日だった。

演習形式の授業が多く、軽い自己紹介もした。不安はありながら、みんな何かしら目標を口にする。その流れをさえぎって「将来の夢は高等遊民」などと言える雰囲気ではない。

「○○ですかね」。過去の自分から無難に導き出される「目標」を口に出してしまった。

 

しょっぱなから休講になった時間をもてあまし、坂口安吾堕落論』(角川書店)をパラパラとめくっていた。角川クラシックスに入っていて、12篇のエッセイが収められている。

堕落論」「恋愛論」を読んだ。それぞれ最後の部分を引用する。

 

 

「戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄のごとくではあり得ない。人間は可憐であり脆弱であり、それゆえ愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる……人は堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ……堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わねばならない」

 

「人生において、最も人を慰めるものは何か。苦しみ、悲しみ、せつなさ……苦しみ、悲しみ、せつなさによって、いささか、みたされる時はあるだろう。それにすら、みたされぬ魂があるというのか。ああ、孤独。それをいいたもうなかれ。孤独は、人のふるさとだ。恋愛は、人間の花であります。いかに退屈であろうとも、このほかに花はない」

 

 

ああ、と思った。

人間は堕ちるのである。とことん堕ちるのである。しかし人間の弱さゆえに、堕ち続けることはほとんど不可能である。

堕ちるべき道を堕ちきったとき、そこで目にするのは、いままで気づかなかった自分の姿なのだ。堕ちた先で自分自身と対峙し、しっかりと見定め、腹をくくって受け入れる。これが人間だ。

 

堕ちきるには、時間が必要だ。

いまの世の中は忙しすぎる。ぼくの大学院も忙しすぎる。

途中でなんとなく回復した気になって、そのまま生きることもできる。だがそれは、自分との対話を欠いた人生になってしまう。それは嫌だ。

 

堕ちきるには、孤独が必要だ。

他人と一緒に堕ちるなどありえない。自分ひとりで、自分のなかに堕ちていくのだ。

苦しみ、悲しみ、せつなさ。一方で恋愛という(いっときの)他者とのかかわりを切望しながら、他方で自分自身のなかに堕ちていく一助になる。

 

堕ちきりたい。とことんまで堕落したい。

しかしゆるされない。

 

これが人生なのだろう。

京響「スプリング・コンサート」

京都コンサートホールに行ってきた。

都交響楽団のスプリング・コンサートを聴いた。

 

このコンサートは京響の各パートの紹介を兼ねており、同時に年度のはじまりにクラシックに親しんでもらうことを目的としている。そのため、親しみやすいプログラムとなっていて、またかなり安い価格設定である。

S席は設定されていない。A席が2000円、B席が1500円だった。

 

このコンサートに気づいたのは、引越し荷物を受け取って整理をしている最中だった。

真っ白の部屋に段ボールが積みあがっているのを見ないようにして、PC京響のサイトを見ていた。

3日後にコンサートがある。しかも安い。

B席の良くない席しか残っていなかったが、すぐに予約した。これがあれば、荷物を整理する元気がわく(と思ったが、いまだに段ボールに囲まれて生活している)。

 

コンサートホールまで自転車で20分かからない。さすが文化の街。狭い空間に、これだけの文化財文化施設が集まっている。

 

プログラムは最後に示す。数多くのプログラムのあいだは、指揮者のトークでもたせる。聴衆から積極的に笑い声が上がり、ホームだなぁと思った。

打楽器や金管楽器のひとたちは、演奏中にパフォーマンスをしており、とてものびのびとしていた。

ハスケルのあばれ小僧では、聴衆から手拍子が上がった。それほど楽しそうに演奏していた。

 

好きだなと思った曲は太字にしておく(太字ではないが、最後のピアノは好きだった)。

それぞれの楽器に焦点が当たるから、「この楽器はこういう音なのか」と生で実感できた。なかなかないと思う。楽しかった。

 

1月から予約が始まっているので、来年はもっと早くに予約する。

 

プログラム

ワーグナー:「ローエングリン」第3幕への前奏曲
パッヘルベル:カノン(ヴァイオリン合奏)
ヴィラ=ロボス:ブラジル風バッハ第1番より序奏(チェロ合奏)
ブルッフ(飯田香編曲 SDA48版):ヴィオラ管弦楽のためのロマンス(ヴィオラ合奏)
フィッツェンハーゲン(中原達彦編曲):アヴェ・マリアコントラバス合奏)
ヨーダー(野本洋介編曲):ハスケルのあばれ小僧
マレッキ:2台のハープのためのコンチェルトより第3楽章
ラヴェル:「ダフニスとクロエ」第2組曲より
モーツァルト(中原達彦編曲):「ドン・ジョヴァンニ」より「お手をどうぞ」変奏曲
アンダーソン:クラリネット・キャンディ
C.L.
ディーッター:2本のファゴットのための協奏曲より第1楽章
ウェーバー:「魔弾の射手」より「狩人の合唱」
アンダーソン(中原達彦編曲):トランペット吹きの休日
ハーライン(宮川彬良編曲):星に願いを
ドミトル(早坂宏明編曲):ルーマニアン・ダンス第2
レスピーギ:「ローマの松」より「アッピア街道の松」

映画『素晴らしき哉、人生!』

フランク・キャプラ監督『素晴らしき哉、人生!1946年。

 

いままでで、もっとも感動した作品である。

どうしようもなく、ラストで泣きつづけた。映画でこんなに泣いたのは、はじめてだった。

事実、アメリカ映画協会の感動した映画でトップに選ばれている。理想像がありながら、ままならない現実に耐えて生きている人間を、まるごと受けとめてくれる。ラストでは、幸せに包まれること請け合いである。

人間が、すこし良くなる。

 

【感想】

町を出て大きなことをしたい。いまのままじゃダメだ。こんなんじゃダメだと自分に言いつづけてきた主人公。

自分では気づかないうちに、周りに大きな影響を与えて、幸せにしてきた。

生まれてこなきゃよかったんだ……そう思うほどの絶望に接し、助け(さらなる絶望)が与えられる。

主人公はどん底で気づく。自分を責めていたのは、見当違いの話だった。大きなことをしたいという夢は物質的なものではない。精神的に周りの人を幸せにしてきた。自分もほんとうは幸せだったじゃないか。

 

ありえないほどの感動である。主人公の表向きの夢が、挫折し挫折し絶望する。最後の最後でほんとうの望みに気づく。すでに主人公は普段の行動で成し遂げていたのだ。

過去は変わらないけれど、ラストで主人公は過去を再解釈する。自分はこんなにも満ち足りていた。

こころの動きが完璧なまでに描かれている。

導入や途中のエピソードで、多少冗長に感じるかもしれない。その場合は、遠慮なく1.5倍速でいい。最後の最後で、普通の速度に戻そう。

この物語を見ないのは、人生の損だ。

 

【あらすじ・流れ】

導入:主人公ジョージの紹介部分はとても長い。

ジョージはこころ優しく、他人のために自分を投げ出すことのできる人間だった。弟を救うために凍るような水に飛び込み、片耳の聴覚を失う。知り合いのおじいさんの処方箋の間違いを指摘して、おじいさんと患者を救う。

そんなジョージを見ていた天使がいた。

ジョージには夢があった。住宅金融を営む父親のように、小さな町で一生を終えるのではなく、この街を出て、世界を股にかけて活躍したい。

 

 

物語は、父親が死ぬところから動き出す。

父親が死ぬと、営んでいた住宅金融が存続の危機に陥る。この会社がなければ、町の貧乏人は自分の家が持てない。敵対している金融業者は、貧乏人から金をむしり取っていた。

父親の住宅金融は、町の人を幸せにしていた。ジョージは世界に出るのを中止した。弟が大学を卒業して住宅金融を引き継げるようになるまで、自分が町を守ることに決めたのだ。

 

しかし大学に行った弟は、そのまま外で所帯を持ち、生活することになる。他人の幸せを願うジョージは、大きく反対しない。しかし鬱憤は募る。

 

幼馴染と結婚したジョージは、ハネムーンで世界旅行を予定していた。手元には、たくさんの紙幣がある。世界への切符である。

しかし銀行の取り付け騒ぎが発生する。ジョージの住宅金融にも人が押し寄せ、預金を引き出そうとした。やむなく手元の現金を使い切って、危機を脱する。今回も世界には出られない。

 

貧乏人相手の住宅金融は、もうからない。家族に満足な暮らしをさせてやれない。

敵対していた金融業者が高い金でジョージを雇い入れるともちかけてきた。一瞬、金額に目がくらむけれど、町の人たちのことを思いだして断る。ジョージは自分のことよりも、町の人たちを最優先に考えていた。

 

第二次世界大戦が始まる。ジョージは聴覚障害で兵役が免除された。弟は海軍航空兵として活躍し、勲章をもらった。町の英雄として、クリスマスに凱旋してくる。戦争に出られないジョージにとって、ほこらしいことだった。

その日は、住宅金融に監査が来る日だった。適正な取引をしていて、金庫には充分な現金があることを示さなければいけない。

不運なことに、事業を手伝っていた親族の手違いで、現金8000ドルを紛失してしまう。全財産だった。これがないと監査に通らず、ジョージは責任者として捕まってしまう。いくら探しても見当たらない。ジョージの人生は、いつもことが思うように運ばない。楽しいことは、すべて邪魔される。

帰宅して家のなかもひっくりかえすが、予備の金などない。妻にも、子供たちにも、電話をかけてきた相手にもあたってしまう。

なんでこんなにうまくいかないんだ……おれがなにをしたっていうんだ……家族にはこんな貧乏な家にしか住まわせてやれない……自分の夢も我慢して生きてきたっていうのに……生きていて意味があるのか……生まれてこないほうがましだったんじゃないか

ジョージは自分の人生に意味を見いだせず、金を工面するために自殺しようとした。町の人にも、敵対業者にも頼めない。橋の欄干に手をかけた。そのとき、天使が川に飛び込んだ。

他人を優先するジョージは、こんなときでも、飛び込んだ人を助けだした。

天使は、不運続きのジョージを救うために天界から送られてきたと語る。ジョージを救うことができれば、天使の階級があがるのだと。

 

ジョージは絶望している。天使の言葉など、妄言だと切り捨てる。天使がいるなら、自分の人生はもっとよかったはずじゃないか。

自分なんかいないほうがよかった……そうすればみんなもっと幸せになれたはずだ。

 

このつぶやきを聞いた天使は、「ジョージが生まれなかった世界」を見せてあげることにした。

 

ジョージは酒場に行く。楽しいはずの酒場はすさんでいて、貧乏人は門前ばらい。知っている人も、自分だと認識してくれない。ジョージが助けた処方箋のおじいさんは、殺人者として投獄された。

町も退廃している。ジョージが資金援助して大都会に行ったはずの知り合いは、町で水商売をしていた。ジョージが金を貸して一軒家を与えた貧乏人は、強欲な金融業者のせいで、ボロ長屋に住んでいる。

弟は、ジョージがいなかったせいで、そうそうに死んだ。妻になるはずの人は、ひとり身で生涯独身だった。ジョージをみて、変質者だと逃げる。

自宅があるはずの場所は、とうに荒れ果て人が住めるようなところではない。

 

ジョージは、自分がいなかった世界を体験していくうちに気づく。

自分がいなかった世界は、こんなにも悪い世界になっていた。自分がやってきたことは、周りをとても幸せにしていた。

「外に出て、大きなことをしないといけない」という思い込みにとらわれていたけれど、この町の命運を、これだけ変えていた。いままで自分が気づかなかっただけで、すでに大きなことを成し遂げていた。

 

自分がほんとうにしたかったことはなんなのか。自分が求めているものはなんなのか。

町を出て、世界を股にかけて活躍することか。世界を変えるような仕事をすることか。違う。ほんとうにしたかったことではない。

むかしの夢は、「父親のようにはなりたくない」という感情の裏返しにすぎなかっただけだ。地に足がついていない、空虚な夢だった。

求めている幸せは、実は、身近なものだった。

 

この町を変えて、周りの人たちを幸せにしてきたではないか。そんな人たちに囲まれてきて、幸せだったじゃないか。自分は、「町を出たいのに、出られない」という満たされなさだけではなかった。周りの人たちと、一緒だったじゃないか。それを幸せと呼ばずして、なんと言うのか。

自分の人生が不運ばかりで、生まれた意味がなかったなんて、なんて視野が狭まっていたのだろう。

 

こう気づいたジョージは、天使に言って元の世界に戻してもらい。家に走った。

家に帰ると、監査役がいた。牢獄に連れていかれるけれど、そんなことはどうでもいい。自分の名を呼んでくれる。監査役に抱きつく。ありがとう!

子供たち、ありがとう! 生まれてきてくれて、ありがとう!

妻が、外から帰ってくる。きみ、ありがとう! 隣にいてくれてありがとう!

 

妻は外で何をしていたのか。

町の人にジョージの危機を伝えたのだ。町の人は、妻の後ろにならんで家に入ってきた。次々とテーブルの上にお金を置いて行って、クリスマスの祝福を言った。テーブルには、お金の山ができる。人波は途切れない。

弟も帰ってきた。町から出ていった人たちからも、融資の電報が届く。家にはクリスマスのメロディーが鳴りひびき、みんなで歌う。

 

人生で最高のクリスマスだった。自分の人生は、こんなにも満たされていた。

 

素晴らしき哉、人生!