白くま生態観察記

上洛した白いくまもん。観察日記。勝手にコルクラボ

碧海純一『法と社会』

碧海純一『法と社会』(中公新書1967年)。

 

ローにいる友人のお薦めで読んだ。「法律関係を学びなおしたいんだけど、何から読むべき?」と訊いたさいの答えのひとつ。

 

【ざっくりと要約】

法は人間が造り上げた文化の一部として、言葉という抽象化能力と切り離せないものと述べる。

そのうえで、人間社会の変化に応じて、宗教や地縁的な結合から分化するさいに必要だったのが「明文化された法」だということが説得的に述べられる。そこに産業社会としての発展があいまって、専門技術としての法が要請され発展したのだという。

社会から要請されてできた法は、法から社会へという影響力の側面も無視することはできない。「社会統合(統制)のための法」である。よく「法律は社会の変化を後追いする」といわれるが、逆ベクトルとして、「法律が社会の方向性を規定する」のでもある。たとえば日本が外国の法体系を継受したとき、権力側が社会のありかた(≒法体系)を選択したということができる。法には、社会を変える力がある。

また権力側が市民に法を強制する(ことによって社会を安定的に維持する)という一面的なものではなく、権力側も法に縛られる。それは憲法だけではなく、とくに刑法・刑訴法で明らかだ。警察が「むかしに比べて、いまは捜査しにくくなった」というのは、それだけ権力の執行が制限されてきたということの証左である。

法は、現実の紛争に適用されることによって姿をあらわす。しかし法は、静的でもあり動的でもある。実際の条文をそのまま適用するだけではなく、他方で紛争の性質や条文の中身を解釈することにより変化した形で適用される。法学的な議論が多くある箇所である。

 

 

「法というものは、社会の組織された実力を背景とする自覚的・制度的な社会統合の技術である」

 

「法は技術なんだよ」と友人が言っていたのを思いだした。

こうの史代『夕凪の街 桜の国』

こうの史代『夕凪の街 桜の国』(双葉社2004年)。

 

ふと、この漫画を思いだした。昨年のアニメ映画『この世界の片隅に』の原作者が、昔に描いた漫画だ。

 

ほんわかしたタッチから生まれる、原爆後の人々の日常。

原爆後を生きるひとは、どう生きていたのか。臨場感がある描写である。

 

残念ながら、「桜の国」の中身は思いだせない。漫画は実家に置いてきてしまった。

 

 

「夕凪の街」のクライマックスは、引き裂かれるような思いが描かれる。

主人公の女性は、こころ惹かれる男性から想いを告げられる。嬉しく思う。しかしキスをされる直前、原爆のときを思いだしてしまう。

――あのとき、わたしは自分のことに必死で、助けを求めるひとを見て見ぬふりをした。他人を見捨てて、自分勝手に生き延びた。こんなわたしが、しあわせになっていいんじゃろか。しあわせにのうのうと生きる権利があるんじゃろか。

こう思った主人公は、キスを拒む。ふたりは愛し合っているが、愛し合えない。

 

なんということだろうか。

目の前で死んでいくひとを見捨てた自分。しかもそれを忘れていて、こういうときだけ思いだす自分。しあわせになる権利など、ない。自分を責める。

いま、自分を責めても何の意味もないのに。それがわかっていても、自分を責めるのだ。

 

こころに愛を秘めながら、目の前にしあわせがありながら、孤独を選ばざるをえない。

 

主人公は、原爆の後遺症が出て、死ぬ。

福永武彦『草の花』

福永武彦「草の花」『福永武彦全集 第二巻』(新潮社、1987年)。

 

とりとめもない思考の渦を書き連ねているだけのブログに、コメントが付いた。「福永さんの『草の花』は京大生みんな読むべし」とのことだった。こういうお薦めは、ありがたい。

 

お薦めされたものは、できるだけ早いうちに読むことにしている。そしてその人に届くように感想を書く。このブログも例外ではない。読むべき文献・小説・映画・音楽などが積み重なっていく毎日なので、確約はできないが努力する。

 

【感想】

この本を薦めてくれて、ありがとう。

『愛の試み』と一緒に読むべき本だった。

 

「「孤独」に価値を求めて、以てその代償として愛に失敗した」

汐見は孤独に価値を求めたというよりも、存在として孤独だったんだと思う。自分の世界でしか生きていない人間だった。他人はどこまでも他人。しかし愛が一時的につないでくれるはずだった。

孤独に価値を感じていたのではなくて、孤独と孤独をつなぐ「愛」に価値を感じていた。

存在として孤独なのだから(常に意識していたから)、当然、「愛」も通常の意味ではない。精神的な、自分ひとりの「愛」だった。

だからこそ、汐見だけの「愛」は、藤木にも千枝子にも受け入れられなかったのだ。

 

描写が恐ろしいほど冷たく尖っていて、ほんとうに素晴らしかった。最後に名言を抜き出した。

 

ここまで書いて、ある人と『ララランド』のラストの評価が分かれたことを思いだした。

相手が「最後悲しい終わりかただったよね」と言ったのに対して、ぼくは「道は違っても、一緒にいる相手が違っても、数年後たまたま会って目線を交わした瞬間に、昔のようにダンスを踊れるんだよ。ふたりはつながっているんだ。充分幸せじゃないか」と言った。「そんな精神的なもの......」と相手は言った。

ぼくは汐見に似ている。

 

【構成】

冬:サナトリウムに汐見という男がいた。彼は生をあきらめている風で、ただ小説を書いていた。ほとんど自殺のような形で彼は手術中に死んだ。彼の死後、託された二冊のノオトに記された小説が以下で明かされる。

 

第一の手帳:高等学校2年の汐見は、1年生の藤木という男を愛していた。しかし藤木は愛に応えようとはせず、汐見を避けるようになってしまった。苦悩し悶々とする日々。部活の合宿でようやく藤木を話す機会をえるも、ほどなくして藤木が死んでしまう。

たった1年だけ深く接し、愛した藤木。想い出だけが浮かぶ。

 

第二の手帳:汐見はあるひとりの女性を愛した。藤木の妹、千枝子である。

会って話したりコンサートに行ったりするうちに、千枝子は悟る。彼はわたしという生身の人間を愛しているのではない。わたしを通して、理念としての愛や死んだ藤木兄さんへの愛を確かめているのだ。彼の目に、わたしは写っていない。

 

千枝子「わたしたち、もう会わないほうがいいんじゃないかしら」。この言葉で、ふたりは会わなくなる。

最後に一回だけ森のなかで会うも、汐見は千枝子との行為に没頭することができない。そのときであっても、孤独なままだったのだ。千枝子は逃げ、ふたりは完全に切れた。

 

春:千枝子に、汐見の訃報を手紙で知らせた。その返答の手紙が明かされる。ああ、なんという悲哀だろう。

 

【好きな言葉】

「第一の手帳」

本当の友情というのは、相手の魂が深い谷底の泉のように、その人間の内部で眠っている、その泉を見つけ出してやることだ、それを汲み取ることだ。それは普通に、理解するという言葉の表すものとはまったく別の、もっと神秘的な、魂の共鳴のようなものだ。僕は藤木にそれを求めているんだ。(汐見)

僕はどこにいても、自分の存在が余計なような気がするんです。自分の孤独は仕方がないけど、ひとにまで迷惑を掛けようとは思わないから。(汐見)

相手をより強く愛している方が、かえって自分の愛に満足できないで相手から傷つけられてしまうことが多いのだ。しかしそれでも、たとえ傷ついても、常に相手より靭く愛する立場に立つべきなのだ。人から愛されるということは、生ぬるい日向水に涵っているようなもので、そこには何の孤独もないのだ。靭く人を愛することは自分の孤独を賭けることだ。たとえ傷つく恐れがあっても、それが本当の生きかたじゃないだろうか。孤独はそういうふうにして鍛えられ成長して行くのじゃないだろうかね。(先輩)

僕は誰も愛し得ないんです。僕は愛するということの出来ない人間なんです……愛するというのは自分に責任を持つことなんでしょう、僕にはその責任が持てないんです……それでなくったって、僕等は先天的に愛すべき人を与えられているんです、両親とか兄妹とか……ね、僕は与えられたものだけでも荷が勝ちすぎているんです。この上、何も自分から進んで人を選ぶなんてことが出来る筈もないでしょう(藤木)

無力です、僕なんかそれにとりわけ弱虫なんだから。でも僕の孤独と汐見さんの孤独と重ね合わせたところで、何が出来るでしょう? 零に零を足すようなものじゃありませんか?(藤木)――孤独だからこそ愛が必要なのじゃないだろうか?(汐見)

僕等が、存在することによって他者に働きかけるように、既に存在したものも、依然として生者に働きかけるのだ。一人の人間は、彼が灰となり塵に帰ってしまった後に於ても、誰かが彼の動作、彼の話しぶり、彼の癖、彼の感じかた、彼の考え、そのようなものを明かに覚えている限り、なお生きている。そして彼を識る人々が一人ずつ死んでいくにつれて、彼の生きる幽明界は次第に狭くなり、最後の一人が死ぬと共に、彼は二度目の、決定的な死を死ぬ。

 

「第二の手帳」

僕には外側の現実なんて問題じゃない、内側の現実だけが問題なんだ。

一番頭にあるのは千枝ちゃんのことだよ。――だってあなたの言う千枝ちゃんは、あなたの頭の中にだけ住んでいる人よ、このあたしのことじゃない……あなたは夢を見ている人なのよ

甘いとか甘くないとか、そんなことは問題じゃない。その人の魂にしんから訴えて来る音楽が、その人にとって一番いい音楽だ

僕は、愛すれば愛するほど孤独であり、孤独を感じれば感じるほど千枝子を愛しているこの心の矛盾を、自分にも千枝子にも解き明かすことが出来なかった。

普通にはそうなんだろうね、孤独というのは弱いこと、人間の無力、人間の悲惨を示すものなんだろうね。しかし僕はそれを靭いもの、僕自身を支える最後の砦というふうに考えた。傲慢なんだろうね、恐らくは。

それで寂しくはないの――寂しいさ、それは。しかしそれでいいのだ。

あたしは汐見さんが御自分のことを孤独だとおっしゃるのを聞くたびに、身を切られる思いがするの。あなたがどんなに孤独でも、あたしにしてあげられることは何にもないんじゃないの。――君が愛してさえくれればいいんだ――愛するといったって、……ねえ汐見さん、本当の愛というものは神の愛を通してしかないのよ

僕はそうして千枝子を抱いたまま、時の流れの外に、ひとり閉じこもった。僕はその瞬間にもなお孤独を感じていた。いな、この時ほど、自分の惨めな、無益な孤独を、感じたことはなかった。どのような情熱の焔も、この自己を見詰めている理性の泉を熱くすることはなかった。

 

「春」

わたくしはあの方を愛していればいるほど、本当の愛はかえってあの人から離れることにあるのだと考えました。この気持ちは苦しゅうございました。

坂口安吾『堕落論』と、なにか。

無意味なことをして生きたい、という気もちが抑えきれなくなってきた。

講義に出るよりも、図書館に閉じこもって本を読んでいたい。就職のため勉強するよりも、京都の街中で思索にふけっていたい。誰かと会うよりも、下宿に閉じこもって自分と対話し続けたい。

 

ぼくの大学院では、講義に出ることが就職につながってしまう。哀しいかな、ここを選んだ宿命である。

そんなことをするよりも、宗教学や哲学、芸術の講義にもぐっていたい。

 

 

今日は講義が始まる日だった。

演習形式の授業が多く、軽い自己紹介もした。不安はありながら、みんな何かしら目標を口にする。その流れをさえぎって「将来の夢は高等遊民」などと言える雰囲気ではない。

「○○ですかね」。過去の自分から無難に導き出される「目標」を口に出してしまった。

 

しょっぱなから休講になった時間をもてあまし、坂口安吾堕落論』(角川書店)をパラパラとめくっていた。角川クラシックスに入っていて、12篇のエッセイが収められている。

堕落論」「恋愛論」を読んだ。それぞれ最後の部分を引用する。

 

 

「戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄のごとくではあり得ない。人間は可憐であり脆弱であり、それゆえ愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる……人は堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ……堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わねばならない」

 

「人生において、最も人を慰めるものは何か。苦しみ、悲しみ、せつなさ……苦しみ、悲しみ、せつなさによって、いささか、みたされる時はあるだろう。それにすら、みたされぬ魂があるというのか。ああ、孤独。それをいいたもうなかれ。孤独は、人のふるさとだ。恋愛は、人間の花であります。いかに退屈であろうとも、このほかに花はない」

 

 

ああ、と思った。

人間は堕ちるのである。とことん堕ちるのである。しかし人間の弱さゆえに、堕ち続けることはほとんど不可能である。

堕ちるべき道を堕ちきったとき、そこで目にするのは、いままで気づかなかった自分の姿なのだ。堕ちた先で自分自身と対峙し、しっかりと見定め、腹をくくって受け入れる。これが人間だ。

 

堕ちきるには、時間が必要だ。

いまの世の中は忙しすぎる。ぼくの大学院も忙しすぎる。

途中でなんとなく回復した気になって、そのまま生きることもできる。だがそれは、自分との対話を欠いた人生になってしまう。それは嫌だ。

 

堕ちきるには、孤独が必要だ。

他人と一緒に堕ちるなどありえない。自分ひとりで、自分のなかに堕ちていくのだ。

苦しみ、悲しみ、せつなさ。一方で恋愛という(いっときの)他者とのかかわりを切望しながら、他方で自分自身のなかに堕ちていく一助になる。

 

堕ちきりたい。とことんまで堕落したい。

しかしゆるされない。

 

これが人生なのだろう。