京都大学
京都に来て10日くらいたった。
京都大学の環境はとてもいい。
大学図書館の蔵書数は日本で第2位である。ジャーナルも十分契約している。視聴覚設備もいいものがそろっている。
平日に限られているものの、24時間使うことのできる自習室が整えられている。
生協や図書館など、主要な大学機能が日曜・祝祭日も生きている。
配布されるコピーカードで、年間200枚までは印刷できる。
オフィス365を破格の値段で使うことができる。大学構内でJRの切符を割引きで買うことができる。
院生なのでロッカーやキャレルがあるし、自習室内には専門書・資格本が揃っているし、専用のプリンターもあれば談話室もある。
周りの環境を見ても、すばらしい。
自転車さえあれば、鴨川の桜・三条の繁華街・何件もの古本屋・世界遺産の寺社・コンサートホール・複数の博物館・映画館・業務スーパーに、すべて15分以内でアクセスできる。大学生の街である。
飽きることがない。
これだけそろっていても、国立大学なので年間50万円強で一年を過ごせる。
私立大学出身のぼくからすると、1/2の値段で2倍の効用を得ている感じがする。破格の値段だ。
もっといいのが、所属する科の専用図書館である。開架は大変少ないものの、閉架書庫に入ったら別世界だった。地下2階から地上7階までの本にアクセスできる。本があるのに、圧迫感があまりない。
科をまたぐ院なので、法学部と経済学部の本は、それぞれ50冊/3か月借りられる。ありがたい。必要な本をためておくことができる。重要な本ほど双方の図書館にあるので、実質的には100冊が上限となる。これだけあると、上限を気にしなくて済む。
その代償として、附属図書館の使い勝手は悪い。開架は5冊/2週間。閉架も10冊/1か月である。学部生と同じ水準だ。さっそくひっかかってしまった。この点は、母校のほうが使いやすい。
まだまだたくさん、気づいていない仕組みがある。
はやく使いこなしたい。
――メディア室でショパン「革命」を聴きながら。
想像力
母校の飲酒関連事案が絶えない。
こういうことが隠蔽されずに、表に出ていることは評価できる。
けれど中身は悲しすぎる。
「一人の死は悲劇だが、数百万人の死は統計上の数字に過ぎない」
スターリンが言ったとの証拠はないらしい。いちど聞いたら忘れないほど、言い得て妙の言葉である。
ティモシー・スナイダー先生は、「数百万人の死を塊として捉えるのではなく、一人一人の死として受けとめることこそが、我々のすべきことです」とおっしゃっていた。1月に行われた講演の話だ。事実、講演は死んだ人のストーリーから始まった。
ほんの少し前まで、たった一人の死でさえも、ぼくにとっては関係のない「事実」に過ぎなかった。悲劇以前の問題として、感情が入らない。
祖父が死んでも何も感じなかった。おじが死んでも何も感じなかった。ふだんからの付き合いがなかった。
想像力がないのかもしれない。紛争地域で人が死んでも、何も思わない。
しかしぼくは、身近な友人を送る立場を経験してしまった。
もはや他人事ではない。そのときの心の動きが手にとるようにわかる。同じようなことがあると、想像できるようになってしまった。
それでも、すこしでも違うような事例になると、やはり想像力は働かないだろう。
こんなふうにして、すこしずつ想像の及ぶ範囲を広げていくことが経験なのだろうなと思った。
おかざき真里『&』
おかざき真里さんは、好きな女性漫画家のひとりだ。
昨年、あるひとのお薦めで『サプリ』を読んだ。それ以降、機会あるたびに買うようにしている。
こころを浮き彫りにするのが、とてもうまい作家さんである。
『&』を2巻まで買った。つるりとした凹凸のあるワイド版。懐かしい手触り。『サプリ』と同じだ。
やはり、こころの描写がすばらしい。
『サプリ』よりも、冒頭から引きこまれる物語だ。
なぜか。物語の推進力がはっきりしているからだ。
26歳処女が主人公。45歳のオジサンに恋をしてしまう。
それでいて主人公を好きな後輩男子と、ひとつ屋根の下にいる。
この構図だけで、どうなるのか先を読みたくなる。おかざきさんだから、読者のこころを締めつけてくることは確実である。
もうひとつ。それぞれのキャラクターの「闇」が、ずっしりと響いてくるから。
主人公はなぜ人に触れられるのが嫌いなのか。
45歳のオジサンは、なぜああも真に迫って脅すことができるのか。
後輩男子は、主人公と過去になにがあったのか(なぜ主人公は意識していないのか)。
過去が明かされていく描写に引き込まれる。
この2点は『サプリ』にはなかった。この要素を前面に押し出しながら、物語の推進力として使っているところに構成上の違いを感じる。
こころのひだを描いていく作風からすれば、かならずしも必要ではない。『サプリ』も楽しめた。
それでも、推進力があるほうが先を読みたくなるなぁと、いまは思う。10年後くらいになると、こういう設定は鼻につくのかもしれないけれど。
碧海純一『法と社会』
ローにいる友人のお薦めで読んだ。「法律関係を学びなおしたいんだけど、何から読むべき?」と訊いたさいの答えのひとつ。
【ざっくりと要約】
法は人間が造り上げた文化の一部として、言葉という抽象化能力と切り離せないものと述べる。
そのうえで、人間社会の変化に応じて、宗教や地縁的な結合から分化するさいに必要だったのが「明文化された法」だということが説得的に述べられる。そこに産業社会としての発展があいまって、専門技術としての法が要請され発展したのだという。
社会から要請されてできた法は、法から社会へという影響力の側面も無視することはできない。「社会統合(統制)のための法」である。よく「法律は社会の変化を後追いする」といわれるが、逆ベクトルとして、「法律が社会の方向性を規定する」のでもある。たとえば日本が外国の法体系を継受したとき、権力側が社会のありかた(≒法体系)を選択したということができる。法には、社会を変える力がある。
また権力側が市民に法を強制する(ことによって社会を安定的に維持する)という一面的なものではなく、権力側も法に縛られる。それは憲法だけではなく、とくに刑法・刑訴法で明らかだ。警察が「むかしに比べて、いまは捜査しにくくなった」というのは、それだけ権力の執行が制限されてきたということの証左である。
法は、現実の紛争に適用されることによって姿をあらわす。しかし法は、静的でもあり動的でもある。実際の条文をそのまま適用するだけではなく、他方で紛争の性質や条文の中身を解釈することにより変化した形で適用される。法学的な議論が多くある箇所である。
「法というものは、社会の組織された実力を背景とする自覚的・制度的な社会統合の技術である」
「法は技術なんだよ」と友人が言っていたのを思いだした。