白くま生態観察記

上洛した白いくまもん。観察日記。勝手にコルクラボ

河合栄二郎「学生に与う」

河合栄二郎「学生に与う」『河合栄二郎全集』第十四巻、(社会思想社、1967年)。

 

某大学院に通う友人のおすすめ本である。古き良き学生を地で行く彼は、人生に悩みながら、そのもがきをブログにしている。たまに読むのだけれど、とてもいい。自分と対面して生きている。

 

我々は、自分のこころと向き合いながら、生きているだろうか。

 

この問いは、さいきんずっと頭にある。先日亡くなられた渡部昇一『「人間らしさ」の構造』を読んだこともあるかもしれない。河合栄二郎「学生に与う」を少しずつ読んでいたからかもしれない。こういう問いに悩んで夜を明かしても、誰にも迷惑をかけないのは学生のうちだけである。誰にも迷惑はかけずに、自分ひとりで内面と対峙している。

 

あつかわれるテーマは多岐に渡る。

社会に於ける学生の地位、教育、学校、教養、学問、哲学、科学、歴史芸術、道徳、宗教、読むこと、書くこと考えること語ること、講義試験、日常生活修養、親子愛、師弟愛、友情恋愛、学園、同胞愛、社会、職業、卒業

 

このように、たいていのことがらはカバーしているように思う。それぞれのスピードで、思い立ったときに読むといいかもしれない。太字にした箇所はお薦めである。

エリートたる自己認識を求めているように感じた。現代の学生とは社会的に置かれている状況は異なるのは確かである。しかし、こう生きようとしている人間が今もいる。

 

 【まとめのようなもの】

教養

青年期における自覚の問題があつかわれる。

なんらかの事情で、いままで服してきた外側からの命令に対して「なぜか」という問いを投げかけるときがくる。このとき青年は、命令を体してきた自分と問いかける自分とに分化する。見られる自分と見る自分、二つの自我が対立したときをもって、自覚のときが来たというのである。

自覚のときを迎えた青年は、いままでの命令を全肯定することは適わない。逆に全否定して懐疑におちいることも正しくない。両者のあいだで、自分の人格を立ち上げ、人生を選び取るのである。

「かくて教養は人生に於ける闘いである」

 ・自律と他律の問題。さらには自我は「なる」ものである。教養には学問と道徳と芸術が必要。

 

歴史

歴史は構成された過去である。構成する基準はなにか。「現在の眼を以てである……現在の眼を以て眺められる歴史は、現在が変わるにつれ眼が変わるにつれ、書き改められるのは当然である」。

学生が歴史を読む意義と価値は、以下の4点にあるという。①現在の社会を認識することは、自己を認識することの第一歩であるからである。自己の認識は、自己の成長にとって欠かせない。②歴史は全体としては文化史にほかならず、部分にとらわれず全体性を意識する見方を養う。③「歴史は我々に遠近法(perspective)を教える。大きな事件と其の時は思われたのが、やがて後に小さな事件であったり、些事と思われて看過されたことが、やがて驚天動地の大事件となることは、歴史を読むものの屢々逢着する経験である。大きなことを縮小し、小さなことを拡大して、真実の重要性を洞察することは、歴史から与えられる教訓である」。④それぞれのことが現在につながっていることがわかる。すなわち「歴史は寛容(tolerance)の徳を育てる。⑤我々は歴史から人生への指針を与えられる

・きりりとしたよい表現である。 

 

【適当に抜き出し】

「自らさえも尊敬せねばならない人格性が、自らの中にあることから、我々に矜持の念が湧く。自らに人格性があるに拘わらず、徒に自分を蔑視すること、之を卑屈と云う。自らの人格性の前に敬虔に頭を下げることから、我々に謙虚が現われる。自らの人格性の故でなく、唯自らを誇負するもの、之を尊大と云い高慢と云う。自身と謙遜と、卑屈と高慢とは、夫々同一のものの裏表である」教養

「考える為には、先ず周囲の接触から離脱しなければならない……人は人と接するばかりでなく、人と絶って自らと対面する時を持たなければならないのである。」考えること、書くこと、語ること

 

お米

3日ぶりに白米を食べた。

 

お米が甘い。かみしめるほど甘みを感じる。

鼻から空気を抜く。甘みが舌の奥までいきわたる。口蓋も含めて、口のなかすべてで味わう。葉巻やパイプ、ワイン、ウィスキーなどなら香りを楽しむためには必須の技法だけれど、じつは食べ物でもおすすめだ。直接鼻は関係ないけれど繊細な味わいを理解することができる。たとえば白身の刺身や湯豆腐(温めすぎない)なんかはおすすめ。

 

誰でもおいしいとわかるような味つけの食べ物もいいけれど、味わいかたを知っていると「さらにその先」が楽しめるような食べ物が好きだ。

こういうことはいろいろな分野でも同じ。自分のなかに一定の知識と技術をためることで、新たな世界への扉が開く。楽しみかたがわかる最低ラインまで自分をもっていく。扉をくぐって、なお道を極めるかどうかは後で決めればいい。

 

貧乏学生なので、安いスパゲッティと安いトマトソースを主に食べている。だからこそ一層、お米がおいしい。

居合

居合をはじめた。

 

きっかけは、ちょうど一週間前、岩清水八幡宮居合道の奉納演武をみたことである。

巻いた畳や竹を切っていた人たちは、それこそ真剣だった。斬れる人は斬れていたし、失敗する人はかなり失敗していた。見ているうちに「切れそうだな」という人と「切れなさそう」という人がいることに気づいた。なんとなくわかるけれど、説明できない。

形を演武している人の所作は、単純に美しかった。目に力を入れて前方を凝視する姿からは、「斬るぞ」という気合が見て取れた。実際、美しい形を行う人は、刀を振るたびに風切り音が鳴っていた。斬っている。やってみたいと思った。

 

集中している人からは、どことない緊張感がただよってくる。周りの空気を変える。空間を支配する。

 

振り返ると、さいきん集中しきっていないなと思った。ふわふわしている毎日で、軸が定まっていない。こんなんじゃいけないとはわかっているけれど、与えられる課題で忙しいふりをして毎日を浪費している。なにか打ち込めるものが欲しかった。

 

そんなわけで居合をはじめた。

福永武彦『忘却の河』

福永武彦『忘却の河』(新潮文庫、1969年)。

 

福永作品は、『愛の試み』『草の花』につづいて3作めである。

『愛の試み』では、「孤独と愛」について福永さんの認識を理解した。「充足した孤独は愛を試みる」という言葉に、胸を打たれた。

『草の花』では、孤独な福永さんの心的世界を味わった。孤独は孤独でしかなかった。愛に理想をもちつづけ、孤独なまま死んだ。

『忘却の河』では、孤独のさきが描かれる。孤独な人間たちは、どのようにしてつながるのか。セックスではない。血縁でもない。こころの※※※※※を明かすことによってのみである。

 

この3作は、いちどに読むと味わい深い。相互につながっている。『愛の試み』なしには、「孤独と愛」の関係性・世界観が立ち上がってこない。『草の花』なしには、「孤独」を味わいつくせない。『忘却の河』なしには、「孤独」のさきがわからない。

いっしょに読むべきだろう。物語から入って、あとで抽象的な説明を楽しみたい人は、『草の花』→『忘却の河』→『愛の試み』の順番だ。最初に説明を受けて、どう具体化されるのかを楽しみたい人は『愛の試み』→『草の花』→『忘却の河』の順番だ。

 

福永さんに出会ったのは、ツイッターで友人がRTしたことがきっかけだった。その感想をブログにしたら、ほかの友人からつづきをお薦めされた。

いまのぼくが読むべき本だった。ありがとう。

そして、もう福永さんは読まなくて大丈夫かな、という感じである。

 

 

【感想】

男は消極的な孤独であった。自分の殻に閉じこもって、自分の世界で生きている。

当然周りにもそれがわかる。家族はぎくしゃくして、それぞれに孤独だった。

 

その孤独が充足した孤独に変わるのはいつだろうか。

母親が死んだことをきっかけに、家族がぶつかりあったときである。ぶつかりあって、こころの奥底の苦悩を伝えたときである。

苦悩は自分ひとりのものではあるけれど、自分ひとりに閉じているものではない。外に伝えると、通じるものなのだ。それができたとき、消極的な孤独は充足した孤独に変わる。孤独ではあるけれど、外に開いている。

 

孤独な男が、最後に救われるのがとてもよかった。

ぼくも救われた。いまのところ、もうこういうのは読まなくていいかもしれない。

 

【あらすじ・流れ】

男がいた。男は、将来を誓い合った女と死別した。自分の決心がつかない性格のせいで実家の反対を押し切れず、女との結婚を許されなかった。実家が用意した別の女性との婚姻が決まったとき、女は腹のなかの子供ともに崖から身を投げた。

中年の男はこのことを誰にも告げず、心の奥底にしまい込んで、ただ日々を過ごした。妻と娘ふたりと名前もないときに死んだ息子ひとり。

男は若い女と事をなすが、その最中も自分の世界に閉じこもる。昔のことばかりが思いだされる。

 

娘の香代子は、そんな父親が大嫌いだった。父親と思っていなかった。

自分の責任だとして病気で伏せている母親の介護をしつづけていた。想い人があるのに、私が嫁に行ったら介護する人がいなくなってしまう。思いきれない。なんでこんな家に。

 

妹の美佐子は姉とは違い、自分の想いに率直だった。

射止めた女優の座とともに、男にも惹かれる。ふたりはデートをしたりキスをしたりするも、美佐子は、愛とはこんなものではないと気づく。男を残して歩き去る。父親は舞台に来ようともしない。

 

妻は、男が心に何かもっているのは知りつつも、そこには踏み込まなかった。

ある家の書生と懇意になるも、また自分がそれを望んでいながら、行為に及ぶことを恐れてしまう。わたしは人妻である。書生は戦争に行き、死んだ。

 

再び男の視点に戻る。

家族は、それぞれ心に何か抱えていた。それを隠し合っていて、なにもつながっていなかった。

そんなとき、母親である妻が死ぬ。

男は妻を愛していたことを認識する。しかし何もできなかった。自分のせいで。自分を責める。

娘の美佐子は悲しいときにはひとと会いたいタイプで、酔っ払ってダンスをしている。男は四十九日もたたないのにふざけている娘をしかりつけた。娘は反発する。怒鳴りあう。感情が出る。

しかしここで、隠していた心の苦悩を打ち明ける。自分は養子として生まれ育ったこと。母親とは別に愛していた人を、自分のせいで死に追いやったこと。

 

打ち明けたとき、ふたりは真につながった。

孤独な家族は、愛を試み、成功した。

 

【心に残った言葉たち】

小父さんはわたしが病気だから親切にしてくれるんじゃなくて、御自分が寂しい人だから、わたしみたいな寂しそうな女を見ると親切にしなくちゃ気がすまないのよ。そうよ、わたしだって寂しい、寂しくて寂しくて死んじまいたいことだってあったわ。だから来てよ。ね、いいでしょう、約束して。そして私は約束した。誰が私のことを寂しい人だなどと言ったろう。大の男をつかまえて、やっと二十くらいの娘が寂しい人だなどと言うことがあるものだろうか。

この瞬間に死ぬことが出来たならどんなにか幸福だろうと考えていたのだ。

結局、己という男には人間としての一番大切なもの、生きることへの誠意が足りなかったのだ。

 

二人きりの時間を過したり、手を取り合ったり、接吻したりしたところで、それは愛ではなかった。そこには心の通い合っているものは何もなかった。しかし、それが愛になるかもしれない、と考えることはできた。そう考えなければ自分が惨めでたまらないような気がした。

 

わたしはその時も何という心のつめたい人だろうかと憤ったが、しかし今から思えば、あの人には何かしらそれに触れると疼くような深い傷痕が心にあったにちがいない。ただわたしはそれをたずねようとしなかったし、あの人はわたしに教えようとはしなかった。

あの人は癇癪をおこすけれどそれはじきに褪め、それまでの感情のたかぶりを恥じるかのように自分の殻のなかに引きこもった。そういう人だった。それでもわたしにつらくあたったとか、やさしくなかったとかいうわけではない。ただそのやさしさは、これという理由もないのにふと冷たくなり、そうなるともうわたしには手がつけられなかった。

そのかたは心のそこにどうにもならない恋ごころをもち、ひそかにそれに耐え、そして歳月のむなしく過ぎ行くのにやさしい涙をこぼしていられたのだ。

おくさん、僕はあなたが好きだ。……それはどういうことだったのだろう。その言葉をわたしはどんなにか切望し夢にまで願っていたのに、わたしは不意にこわくなり身をしりぞけた。それは夢でこそ可能なので現実におこることはないと信じていたためだろうか。わたしは後ろにさがり、呉さんは茫然としたように畳に座っていた。……すみません、と呉さんはあやまった。わたしはその時いまにも泣き出しそうだった。何のすまないことがあろう。それを望んだのはわたしだった。

 

妻が死に、私は人前では一雫の涙をも零さなかったが、深く歎いた。済まないことをした、お前という女の一生を、私のような男を夫婦になったばっかりに、何のしあわせなこともなくてこうして死なせてしまった。そう私は心のなかで詫びたが、そんなものが何になろう。

なぜ人は、相手が生きている時に考えなければならないことを、その人が死んでから無益に振り返ってみるのだろうか。

自分にすべてを委ねて、わたしを離さないでといっている女に、既に心は離れ、彼の手は誰の背でもない虚無の上をむなしく撫でていたのだ。彼の手は嗚咽とともに痙攣する妻の背中を、ゆっくりといつまでも撫でていた。

美佐子が、ぽつんと言った。お父さんは冷たい人ね。

そんなこと考えもしなかった、と香代子は正直に答えた。パパが心配するなんて。どうしてパパが心配するの。自分の子でもないくせに。

大学を途中でやめるまで、私は私の友人たちを見るたびに何かが違う存在、何かが欠けている存在として、自分を意識した。

わたし、そういうお父さんが好きよ、と美佐子は言った。お父さんはいつも御自分の心を隠そう隠そうとしていらっしゃる、そういう時にお父さんはとても寂しそう。でも本当はお父さんはずっとこころのやさしい人だったのね。私たちがみんなそれをわからなかったのね。