白くま生態観察記

上洛した白いくまもん。観察日記。勝手にコルクラボ

岩清水八幡宮

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岩清水八幡宮

 

桜が咲いている時期に行った。

京都にきてからずっと雨が降っていて、たまの休みが運よく晴れた日だった。とりあえず鴨川を下ろう、と思って気持ちよく漕ぎ出したら興が乗ってそのまま1時間強。緩い向かい風のなかを、サイクリングの列の後ろにくっついて漕いだ。

鴨川沿いはまだ開発が終わっておらず、右から左、左から右へと走る道を変える必要があった。4回くらいかな。実際のところ京都市内の大通りを使うほうが早く行けた。だけれど、菜の花畑があったり、川のせせらぎが聞けたり、サックス吹いている人がいたり、川沿いはいい。途中からサイクリングロードに連結するので、そこからは早い。

 

岩清水八幡宮は、小山の上にある。石段がそれなりに長く続く。ロープウェイがあるほどだ。サンダルだったので、すこし痛い。

本殿のまえで居合道の奉納演武が行われていたことは、すでにブログで書いた。居合をはじめるきっかけとなった。感謝。

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谷崎純一郎の文学碑があり、その横の展望台からは眼下を見下ろせる。緑が気持ちいい。

西本願寺 花灯明&夜間特別拝観


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西本願寺

いま、花灯明と特別拝観が催されている。新しい宗主に代わったことを、阿弥陀如来親鸞に伝える伝灯奉伝法要の一環である。

今回は第十期の拝観期間。これが最後となる。31日まで。

 

先日行ってきた。すばらしかった。

 

結論からいえば、京都にいるのに、これを見に行かないなんてありえない。

 

2000すぎに着いた。整理券が手渡される。30700番台だった。かなりの人出だ。

ならんでおく必要はなくて、目安の時間にまた来ればよい。

 

人の流れがコントロールされているので、ゆっくりと見られる。予定の締め切り時間を過ぎていたが、柔軟な対応として2200すぎまで見回らせてくれる。

 

唐門をみて、書院に行く。

主要な部屋には金箔が貼られていて、夜でも光を反射する。それほどの光量はいらない。襖画は、輪郭がなんとも言えない狩野派が好きなのだけれど、円山派が多い印象。

係員のかたが「お手を触れないでください。国宝です」に加えて「柱にも触れないでください。廊下も含めすべて国宝です」といっていた。

すごいところにきてしまった。そう思った。

素足で国宝(?)を踏みつけている背徳感もある。しかも無料。行くしかない。

白書院はよかった。襖画として、黒い孔雀の向かいに、白い孔雀が描かれている。欄間では、表と裏に違う紋様を彫っている(技法は忘れた)。

廊下の天井にも芸が凝らされている。花が描かれていたり、巻物が描かれていたり、幾何学紋様であったり。飽きない。

虎渓の庭もすごい。京都のど真ん中、国宝であり世界遺産でもある西本願寺のなかに、異国風の庭がいきなり広がるのだ。ソテツが存在感を放つ庭である。

みんな息をのんでいた。考えてみたら、中国の故事は襖画や彫刻で描かれている。異国は常にそばにあった。驚くほどのことではないかもしれない。

しかしそれらは、襖に墨で描かれていたり、木に彫られて彩色が施してあったり、異国そのものが目の前にあるわけではない。「異国らしさ」があるだけだ。虎渓の庭には、ソテツがどーんと構える。異国の情緒がそのまま再現されるのだ。違う世界にきてしまったと、驚くのは当然なのである。

 

飛雲閣が明りで照らされているのもよかった。和紙を通った光で、ぼおっと浮かび上がる姿は見ておいて損はない。目の前の池で、蛙がガァガァ啼いているのもよさがある。

 

そこを抜けると、花灯明である。


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青竹をくりぬいて、中から光で照らす。簡単にいえば、イルミネーションだ。

クリスマスによくあるように、直接電球を見せたのではうるさい。やはり間接的に明かりを見せるのがいい。

きれいだと思った。こんなにきれいなのに、人が少ないのもよい。

 

31日までです。行く人はぜひ(ぼくももう一回行く)。

平野神社、北野天満宮天神市


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秋にも咲く桜が植えてある。

 

平野神社

北野天満宮のすぐそばにある。

境内には、桜の木がたくさん植えられている。桜の時期には、桜の花で埋め尽くされるのだろう。桜の花びらが形づくるアーチの真ん中を歩き抜ける。

想像するだけで美しい。

 

毎月25日には、北野天満宮で天神市が開かれる。骨董市でもあり、お祭りでもあり、という感じの雰囲気だった。

着物を売っている店が多かったのが印象的だった。ひとつ1000円くらいの値づけが標準。帯や風呂敷、櫛なんかもあわせて売っている。扇子も多かった。手作りの陶器も扱う店もあった。

いうまでもなく、玉石混交なので目利きが肝心である。

 

ネットの情報だと1700まで開かれているという話だけれど、いかんせん個人でやっているのが大半のため、1500過ぎから片付けはじめる店が多い。注意が必要だ。1600ころには、ほとんどの店が片づけを始めている。終えている店も少なくない。できるだけ早めに行きたい。たくさんの店が通りに並び、人出も多い。

もっとも、当然ながら店じまいのギリギリにいけば、価格交渉はしやすい。それを狙っていくのもオツだ。

『ハリー・ポッターと死の秘宝』

ぼくは軽めのポッタリアンである。
本は10周以上しているし、映画も3回は通しで見ている。映画で省略された箇所も、頭のなかで映像化されているから、地上波放送ではしょられた箇所がわからない。
そのくらいのポッタリアンだ。

ただ、何回読んでも、原作第7巻で、腑に落ちない箇所があった。

ひとつめは、スネイプ先生の最後の言葉look at meの解釈。
自分の記憶をハリーに託すので、「記憶のなかの、ほんとうの自分を見てくれ」という意味だと思っていた。しかし、どことなく場面にあわないなぁと思っていた。
ふたつめは、ハリーがヴォルデモートの死の呪文を くらってなお、生き残る場面。仮にも死の呪文を受けておきながら、「ハリーのなかのヴォルデモートの一部」だけに効果が及ぶのは都合がよすぎないか、と思っていた。

今日、映画をみて、これらの疑問が解消された。簡単なことだった。過去のメーキング映像を見るかぎり、映画化するさいにはローリングさんとの検討を経ている。本作の映画版では、解釈が固定化されるように表現されていた。
いままで、この描写に気づかなかった。ポッタリアンとしてなんという失態。

ひとつめ。「私を見て」というのは、ハリーに向けた言葉ではなかった。リリーに向かって発した言葉だったのである。
目の前のリリーに「ぼくのことを見つめてくれ」と言ったのだ。正しくは、リリーの目をしたハリーではあるけれど、そんなことは関係ない。死ぬ直前、息も絶え絶えのスネイプにとって、ただ目だけが重要だった。世界のすべてだった。スネイプは最後の瞬間に、リリーとふたりだけの世界にいたのだ。
「きみの息子を守ってきたよ。最後までは見届けられないけれど、できるかぎりのことはした。許してくれるかい。許してくれなくてもいい。いまだけはぼくのことを見ていてくれ」

ふたつめはとても単純だった。
杖の忠誠の話だ。ニワトコの杖は、ハリーに忠誠を誓っている。ハリーは杖をもたずにヴォルデモートのもとに行くから、杖同士での相殺ビームは発生しない。その状態で死の呪文を受けると、呪文はハリーに当たるものの、正規の効果はハリーに及ばない。「たまたま」いちばん近いヴォルデモートの一部に当たる。という寸法だ。
(ニワトコの杖をもった)ヴォルデモートが死の呪文をハリーに使うこと。そのときハリーは、蘇りの石に触れて死を受けいれ、無防備にヴォルデモートのもとへ行くこと。これらが必要だった。きわめて論理的に準備されていた。さすがローリングさん。


ふたつめの話は、原作を読んだときには了解できていた気がする。忘れていただけの可能性が強い。問題なのはひとつめの話だ。より根深い問題が露呈する。
言葉に込められた意味は、その他の手段で限定されないと、正しい解釈にいたらない。
正しい解釈などないといえばそれまでだが、作者の意図は上のようであった。この意図は、映画で補足説明されなくても、恋愛をしたことがあるひとならすぐに気がつくだろう。原作を読んだ時点でも、想像力と経験の差によって、読みの正確性が変わってくるのだ。
しかも4回以上は映画を見ている。いままで、これだけはっきりと描写されていた極限のシーンについて、誤解を正せなかったのだ。
なんということだろう。

さいきん、いろんな経験をするようにしているのは、こういう間違いをできるだけなくすためである。ぼくは何も知らない。