白くま生態観察記

上洛した白いくまもん。観察日記。勝手にコルクラボ

蚊と殺虫剤

ここ一週間、十分に寝られなかった。寝不足のせいで、木曜の京都めぐりはキャンセルしたし、金曜のコンサートもキャンセルした。自分の体調が優れないときに行っても、ちゃんと味わえない。

これらはぜんぶ、蚊のせいだ。

複数匹が部屋に入り込んでいたようで、夜中に二匹殺したものの、まだ羽音がする。身体はかゆい。寝られない。

 

あの羽音は人類の敵という感じがする。本能が共存を拒否している。いくら平和を愛するぼくだからって限度はある。

耐えきれずに、友人の指示に従った。ベープなる薬剤で、蚊を駆除することにしたのだ。大量報復理論である。プシュッと一発散布した。

効果はてきめんである。

昨日までのプーンという羽音は一夜にして消えた。翌朝身体を調べた。新しく血を吸われた形跡はない。完全勝利だった。

 

しかし、だ。

殺虫剤で蚊は死んだ。ただ、蚊の肉体は残る。

翌日。床に、もう羽ばたけない蚊の肉体があった。殺虫剤は蚊の神経系を直接ダメにするタイプのものだ。薬剤に触れた瞬間、神経がイカれて死にいたる。

目の前には、生きているときと同じ姿をした蚊がいた。

 

異様な感じがした。たった一回ボタンを押すだけで、部屋の蚊が死滅する。蚊の死体と一緒に、ぼくは一夜を明かした。一週間ぶりの快眠だった。

 同じ部屋にいながら、一方は死に、他方は元気になる。これが殺虫剤だった。ゾッとした。

 

こんなことになるんだったら、自分の手でぶちゅっと殺すんだった。自分の行為で、自分の知らないところで勝手に死なせるくらいなら、自分の手のなかで殺したかった。

TED  Guy Winch “Why we all need to practice emotional first aid”

TEDというプレゼンテーションを知っているだろうか。

 

NHKが「スーパープレゼンテーション」と銘打って、英語(+日本語字幕)と日本語で放送している、アメリカのプレゼンテーション・ショーである(註:2018年に番組は終了した。本家は残っている)。

TEDのサイトには日本語訳のスクリプトもあるから、誰でも気軽に世界トップのプレゼンを見られる。 

そのなかから、ひとつ紹介したい。

Guy Winch“Why we all need to practice emotional first aid”

https://www.ted.com/talks/guy_winch_the_case_for_emotional_hygiene/transcript?language=ja#t-182207

 

ウィンチは、「小さな子供でも身体が傷ついたときの対処法は知っているのに、我々大人でさえ精神が傷ついたときの対処法を知らないのはなぜだろう」と疑問を投げかける。たしかにケガをすれば、だれでも消毒をして絆創膏を貼る。もっと言えば医学的に、いま消毒は推奨されない場合もあるし、絆創膏も適さないときがあるのも知っている。まったく意識していないのに、誰でも応急処置を知っている。

なのに精神が傷ついたときの対処法は、あまりにも知らない。たとえば孤独感にさいなまれたとき、失敗して無力感におちいったとき、挫折してどん底にいるとき、自尊心が損なわれ不安が絶えないとき、最初にどうすればいいのか知らない。そのまま放置して治るのをまつか、悪化し続けて医者にかかるか。この二択しかない。自己流で対処する人もいるけれど、もっと科学的な対処法が求められている。

ウィンチは、この状況を打破するために本を書いた。Guy Winch, 2013.  Emotional First Aid, USA: Plume.である。新しい精神医療の知見を活かしながら、誰でも実践できるように応急処置方法がまとめられている。拒絶や孤独感、自尊感情の低さなど、場面別の処置方法が載っている。邦訳されていないのが残念だ。

 

このプレゼンテーションでは、反芻思考を中断して自分を客観視するために、2分間だけ気を紛らわせることを提唱している。

反芻思考とは以下のものである。上司に怒鳴られたり、他人の前で恥をかいたり、大きな失敗があったりしたとき、人はその場面を何回も思いだして、不必要なまでに自分を消耗させる。落ち込んだり、怒りが沸いてきたりして、ほかのことに使える時間を奪って、自分で自分を傷つける。

そんなときに、たった2分だけ、違うことで頭をいっぱいにしてみる。そうすると、いままでの反芻思考から抜け出て、すこし客観視できるようになるというのだ。これを続けると、効果があるという。

 

これを知ってからできるだけ実践するようにしている。

しかしすでに反芻思考にとらわれているときに、たった2分間でも違うことを考えるのはむずかしい。

そこでできれば身体を動かすことにしている。近くのコンビニまで、息がきれるスピードで走る。トイレの便座に座らず、空気椅子で限界まで耐える。

たいていはそうもいかないので、手元にスマホがあるなら、単純作業のゲームで、限界までスピードをあげてやるとか。面白いサイトを見つけておいて、強制的に笑いつづけるとか。酒を飲んで夜中にしていたラインをみて、バカなことやってるなと恥ずかしくなるとか。

なんでもいい。頭を使わず、けれど頭の思考領域をいっぱいにしてしまう何かをあらかじめ見つけておくだけでいい。たった2分で、反芻思考から抜け出せる(気になる)。

 

このプレゼンの元本を買った。

6月末まで時間がなくて、時間をみつけては読んでいる。来月まとめたい。いろいろな場合の対処法が載っている。

『四月は君の嘘』2

『君嘘』をおすすめしたのはいいけれど、ストーリー展開を記述しただけで(それも前半だけ)、「この物語で何が描かれているか」について触れていなかった。

11巻に直接的に言葉にされている。主人公はコンクールの決勝の舞台で、ショパンバラード第一版」を弾く。彼は音の聞こえないピアニストである。しかしだからこそ、自分のなかにある音をよく聴いて、それをピアノで表現することができる。

自分のなかにある音。それは、いままでの人生で触れてきた音である。すなわち、いままで出会ってきた人、過ごしてきた時間、遊んだ場所……そういうものすべてが、自分を形作っている。主人公は、ピアノを弾くと同時に、かかわってきた人たちとの音を表現していることに気づく。端的にあらわした一節が以下のものである。

 

 

僕らは 誰かと出会った瞬間から

一人ではいられないんだ

 

僕の中に 私の中に

君がいる

 

 

主人公の人生は、けっしてモノトーンだったのではなかった。たとえ本人にはそう見えていた時期があったとしても、周りにはいつも幼なじみがいた。母親は早くに亡くなったけれど、母親の残した音が主人公に残っていた。昔弾いていたピアノは、他のピアニストに影響を与えていた。彼らはいまライバルとなって目の前に現れ競って音を作り出している。

なによりヴァイオリニストの少女は、主人公にまたピアノを弾いてほしいと、すべてをなげうった。主人公は、愛されていた。

 

主人公の有馬公正は、けっしてひとりだったのではない。いろんな人とつながっていた。

有馬の心のなかには、みんながいた。みんなの音が有馬のなかにあった。カラフルだったのである。

 

 

私は誰かの心に住めたかな?

私は君の心に住めたかな?

 

君は忘れるの?

 

 

本当は、こう問うまでもないのだ。人と人がかかわった瞬間から、いやおうなしに、こころのなかにはその人がいる。忘れられるわけがない。自分そのものなのだから。「私」は単数ではない。

それでも、ぼくらはこうやって確認したい生き物である。ふとした拍子に、かかわったことを忘れてしまう。自分がほかの人のなかに残っているのか、不安になる。

 

 

音楽は、言葉を超えるのかもしれない。

 

 

言葉を超えて、こころとこころがつながりあう。そのつながりを描いた作品だった。

新川直司『四月は君の嘘』

とても好きな漫画がある。アニメにもなった。どちらもすばらしい。

新川直司四月は君の嘘』(講談社、2011-2015年。全11巻完結済み)である。

繰り返し繰り返し、みんなにお薦めしているのだけれど、だれも読んだり見たりしてくれた形跡がない。何回でも言う。これは傑作なので、読んだほうがいい。

 

話の大筋だけをまとめる。

こころに大きな傷をおって自己否定を繰り返していたピアニストの少年が、ヴァイオリニストの少女との出会いによって傷に正面から立ち向かわざるをえない状況に追い込まれ、その傷を自分の特徴として自己受容できるようになる。

少年のこころの回復を描いた物語である。

 

このように表の物語としては少年が主人公である。ただしその裏には、少女の物語があった。「君の嘘」で、物語ははじまった。

 

この構造が、第1巻で強く示唆される場面がある。

主人公は少女にコンクールの伴奏を頼まれるも、コンクールの直前で逃げてしまう。

主人公は、ピアニストなのに音が聴こえない。満足な演奏ができるわけもない。少女に迷惑をかけてしまう。それならぼくは、伴奏なんかしないほうがいい。

そうやって、自分のなかに閉じこもっていた。いままでと同じように。

 

そこに、少女が飛び込んでくる場面だ。

 

 

――僕はピアノが弾けないんだ

――だから何だっていうの

君は弾けないんじゃない。弾かないんだ

“ピアノの音が聴こえない”。それを言い訳に、逃げ込んでいるだけじゃない

 

――僕は……僕は怖いんだ

 

――私がいるじゃん

君が――音が聴こえないのも、ピアノを弾いてないのも知ってる。全部知ってる

でも君がいいの

君の言う通り、満足のいく演奏はできないかもしれない

でも弾くの

弾ける機会と聴いてくれる人がいるなら、私は全力で弾く

それが私のあるべき理由。私は演奏家だもの、君と同じ

 

だからお願いします。私の伴奏をしてください

私をちょっぴり 支えてください

くじけそうになる私を――支えてください

 

 

少年を助けにきたはずの少女が、逆に、「私を――支えてください」と泣きながら懇願する。

自由奔放で、わがままで、ズカズカ他人の領域に踏み込んでくる少女は、その裏で、たったひとりの支えを頼みにしていた。その人の前でだけ、自分の弱いところをさらすことができた。

 

人間は、支えあって、頼りあって生きていく。

 

こころが傷ついたとき、疲れたとき、すこし休むのにピッタリの漫画である。読み終えたときには、ほんのすこしだけ、元気が出ると思う

 

けっしてぼくがオタクだからおすすめしているのではない。男だからおすすめしているのでもない。

この漫画には、人生が描かれているから、おすすめしている。

 

漫画を再現できるわけもない。ぜひ読んでほしい。

追記:急いで付け加えると、少年のこころは自己否定→自己受容の軸に重ねて、孤独→依存→自律の軸もある(第二部)。ネタバレになるので触れない。