白くま生態観察記

上洛した白いくまもん。観察日記。勝手にコルクラボ

道尾秀介『光媒の花』

道尾秀介『光媒の花』(集英社、2012年)。

短編連作集。そうくるか! という驚きの連続で、心が揺さぶられる。緩急がしっかりしている印象。すごい。

友人が紹介していて、たまに読むサイトがある。「作家の読書道」だ。道尾さんは、「相手の頭の中に感情を直接ぶつける」ことをやりたいと言っていた(「作家の読書道 道尾秀介http://www.webdoku.jp/rensai/sakka/michi78.html)。
成功している作品だと思う。

外的な要求と、内的な要求

外的に要求されることと、内的に要求されることが違うことがある。たとえば腕立て伏せをするときに、筋トレの知識がない状態で両手両足を地面につけて腕を曲げて伸ばすと、筋トレの意味で「腕立て伏せ」にはならない場合が多い。正しいフォームをまねしているつもりでも、どこか違う。できているけど違うのだ。その違和感は、正しいフォームのなかに隠された内的な論理を身に着けることで解消される。意図する箇所に刺激を与えられるようになり、腕立て伏せの応用編もできるようになる。

英進流居合で最初に教わるものに「前」という業がある。帯刀・正座した状態から、刀を抜き出すと同時に前敵を横一文字に切り、すかさず振りかぶって切り下ろす業である。

この初動は「左手鞘、右手柄、膝寄せる」と教えられる。左手で鞘をにぎって鍔をきり、右手を柄にかけて、膝を寄せる。そして抜きながら立ちながら膝立ちして爪先立つ。右足を前に出すと同時に鞘から刀を抜いて横一文字に切りつける。

「膝を寄せる」動作は、外見的には膝を寄せればいい。言われたように(楽をすると)重心を骨盤の鉛直=両足の真ん中に置いたまま、膝だけを寄せる。つぎによいしょと上体をあげていく。

しかしそれだけではない。筋肉としては、内転筋を働かせる感じである。ふとももの内側を絞るのだ。こうすると膝が寄るだけではなくて、上体が若干もちあがる。上体がもちあがることは、正座で脚がたたまれているので、重心が前に移動することを意味する。そのまま前に行く重心に引っ張られるように、スムースに抜きつけの一撃を放つ。

 

膝だけを寄せた場合と内転筋を絞った場合では、体さばき・重心移動の理念が違うことになってしまう。膝だけを寄せるのはカクカクした動きになって、速さと正確性を犠牲にし、相手の対抗行動をゆるすことになる。内転筋を絞れば、なめらかな重心移動により繰り出される斬撃に力をこめることができる。先をとることができる。ジャンプするときに膝を屈伸させて伸びるエネルギーを使うのと同じように、体の中心にぐっと力をこめて、その力を解放しながら一撃必殺の斬撃を浴びせるのである。

 

居合を始めて4か月。だんだんと理解できるようになってきた。はじめて稽古をつけてくれた人に「めちゃくちゃやってるでしょ。上手い下手は別として、居合の動きになってる」と言われた。すごくうれしかった。このように意識をしているかいないかは、わかる人にはわかる。

合気の足さばき・体さばきとは別に、居合の足さばき・体さばきができるようになってきた。やっとスタートラインに立てた。

 

おまけ

ふともも内転筋に力をこめる動作は、体を対敵正面に保つさいに不可欠でもある。ここでも「両足を相手に向けて並行に」という教えは、足だけに意識を向けるのではなく、じつは内転筋に力を入れ続ける意識によって達成される。体の中心部と末端の動きがどうつながっているのか。ここを意識できるようになると、体さばき・足さばきに一貫性が出てくる。

盆踊り

近所のお祭りに参加した。居合を教えてくれる人たちも参加していて、その手伝いもかねて。その土地で暮らすからには、外から眺めるんじゃなくて、かかわっていかないとわからないものがある。たった2年だけれど、そのなかではできるかぎり。

 

盆踊りがあった。今年が初開催のお祭りなので、決まった踊りはない。けれど、年配の方を中心に踊れる人はいて、そういう人から全体に同じ踊りが緩く広がっていく。完全に一緒にはならない。知らない人もなんとなく周りにあわせる。赤ん坊を抱えた人は、あやすように軽くはねながら回る。外国のかたも、周りをまねしながらぎこちなく踊る。そうすると、いつのまにかおばちゃんが隣にいて踊りを教えている。なんだろう。そもそも外見は白人なのに日本語がペラペラで僕より踊りのうまい老人もいる。いろいろごっちゃになっている。いい。

隣の人が言った。「車いすに乗って、ぜんぜん踊れていないけど、楽しそうにしてる。ああいうのいいね」。いわれてみると、会場に車いすのかたとその介助のかたが数組いることに気づいた。ニコニコしながら、手をひらひら揺らしている。盆踊りの輪に加わっているかたもいた。足が動かないから踊りは踊れないけれど、腕を揺らしながら一緒に輪に加わって、楽しそう。

こういうのがぜんぜん不自然じゃない。いろんなひとがいて、いろんな人生があって、ごっちゃになって踊る。そんな空気感。

大文字山、送り火の炭

8月16日に五山送り火が催される。
2017年の夜8時は晴れていて、風もあって涼しい。出町柳と鴨川デルタは人で埋め尽くされている。警察官が交通整理をして一部通行止めを行う。
地元の人はよく見えるポイントを知っているので、人の少ない場所で静かに手を合わせる。イベントではあるものの、もとはと言えば盆の送り火である。ぼくも手を合わせた。

すると親に連れられた男の子が高い声で不満をいう。
「おもろない! ただ火がついてるだけやねん。おもろない」
そのとおり。でもね、いつか君も子どもを連れて手を合わせるんだよ。とはいわずに、ニヤッと笑った。繰り返される光景があった。歴史だ。


地元の人は送り火の消し炭を取りに行って、半紙にくるんで玄関につるすらしい。そうすると何か良いことがある。「みんな行くから、日の出とともに行ったほうがいい」と教えてくれた人が言っていた。日の出は5時18分。とは言いつつ、さすがにそんな朝早く行かないだろと思っていた。大文字は火床も多いし、大きいのも残っているはず、と。6時ころ火床につけばいいと判断した。
間違いだった。5時48分に銀閣寺ルートから登り始めると、前には登る列ができている。さらに次々に下山してくる人とすれ違う。ビニール袋いっぱいに炭が入っている。あっちゃー。遅かった。
6時過ぎに火床についたけれど、端の火床にも大きな炭は残っていない。せいぜい3-5センチの塊が限度。もっと早く着いた人は、りっぱな棒状の炭を手に入れられるのだけれど。

せっかくなので山頂まで登った。そこで会った人によると、日の出前から火床に入っている人がいるらしい。ライトをつけているので、山裾から光がゆらゆらしているのが見えるそう。大文字山は16日午後2時から送り火準備のため閉山される。この閉山は16日だけなので(立て看板)、ギリギリを狙うなら12時を回った瞬間から入山できるのかもしれない。
そりゃ間に合わないわ、と思った。そこまでやるつもりはない。
火床からも山頂からも、京都市が一望できる。山に隠れてまだ太陽が照っていないところもある。きれいだった。走って登ったので汗だくだったけど。それでも風が通り抜けていくから気持ちいい。

「京都の人は、コンチキチン(祇園祭)を聞いて夏がきたと感じて、大文字を見て夏が終わったと感じる。そのあとは残暑」
盛ってるとは思いながら、長すぎる残暑がまってる。