リズム感のない俳優
鴻上さんの著書に、こんなエピソードがある。
名越という、リズム感のない俳優がいた。踊りは下手だけれど、だれよりも楽しそうに踊る。演出家の鴻上は、うまくないけど幸せに踊る姿をみて、いつも幸福になる。それでいいと感じていた。
あるとき名越は、うまく踊れない自分に嫌悪感が芽生える。難しくなっていく振り付け、リズムをとれない自分、重なる公演。自らを追いつめて、演劇を続けるかどうか悩む。
そんな彼に観客から手紙が届いた。その一節である。
うまく踊れる人は、自分にとってはどうでもいい。あきらかに不器用と思える名越さんが、リズムを外しながら、それでも、一番楽しそうに、精一杯踊っている姿を見るだけで、僕は感動する。それは、うまく会社で立ち回れない不器用な自分を、力強く励ましてくれる。
うまい人のダンスは、うまいと思うだけだ。でも、名越さんのダンスは、僕を励ましてくれる。だから、名越さん、いつまでも、リズムを外しながら、踊り続けてください(『ロンドン・デイズ』263-264頁)
世のなか、すべてうまくいく人ばかりではない。どこか欠けていて、うまくいかない人でいっぱいだ。
もちろんうまい人はえらい。それだけ練習を積んできた証だ。でも、うまくいかない自分を重ね合わせるとき、下手ではあるけど一番幸せに精一杯踊っている人のほうが、心に訴えかけてくる。
なぜうまくなろうとするのか。人の心を動かすためである。中途半端にうまい人よりも、名越さんの踊りのほうが人の心を動かせるのだ。これも演劇の魅力である(鴻上さんは正解がたくさんあると言う)。
ダンスを始めたばかりの多々良君は、けっしてうまくない。下手だ。
「それでも、一番楽しそうに、精一杯踊っている」。その感情が、観客に直接伝わってくる。観客の心は動かされるのだ。だからみんな見たいと思う。
芸術はうまいだけではいけない。観客の感情を動かしてこそ、一流の芸術である。
全身で感情を伝えてくる多々良君に、ダンスとしてのうまさが加わったらどうなるのか。ぜったい化ける。だからこそ僕は、多々良君の物語を読みたいと感じるのだ。
道化
「○○のこと、どう思う―?」
「あいつトロいし、変に笑ってるし、なんかキモイわ―。無理」
「だよな。俺も無理だわ。話しかけてくんなっての」
となりから会話が聞こえてくる。
自分のことかと思って傷つきかける。こっそり顔をみて、知らない人であることを確認する。ほっとする。
こういうふうに話を振られたとき、どう返答するか迷う。
「どう思う?」ったって、どうとも思っていないのだ。自分とは関係ない赤の他人。たまたまクラスで一緒になっただけの人。話したり笑ったりもするけれど、その人をどう思うかなんて意識したこともない。
「□なとき、△する人だよね」。
話の流れにあわせて、悪めのイメージで説明するか、良さげなイメージで説明するか、迷ってから答える。相手はタイムラグを気にしながらも、自分の感情にそって発言を解釈するから、正解のイメージになることが多い。はずれていても、客観描写なので問題はなかったりする。とにかく、話を振った相手は「私が○○をどう思うか」に関心があるので、描写から僕がどう思ってるかを解釈する。「やっぱり。ゆるせないよねー」と返される。違うんだ。どうでもいいんだ。なんにも思っていないって言うのが正しいんだ。
不思議に思う。話しかけてくる相手は、そんなに他人のことを思って生活しているのだろうか。あいつはいいやつ、あいつは悪いやつ。そんなことしていて、疲れないのだろうか。
ぼくはたいていの人に関心がない。
関心がないのが悪いことのような気がして、「あいつ嫌いだわー」って言ってみたりしたこともある。そうすると、きらい、の三文字から放たれる強い負のエネルギーに驚く。そんな強い言葉を使ってしまって、自分のことが嫌いになる。
「あいつはダメなやつだ」
――まさかそんなことほんとうに思ってないですよね? とは言えずに、適当に話を合わせてしまう。「□のとき、△するのはよくないですよね」。会話を成立させるために、心からずれた言葉を口にする。心から外れた言葉は、脳みそで処理しないといけない。だから疲れる。どれだけ自分を覆って生活しなければいけないのか。
どうでもよくない?
この世界のほとんどのことはどうでもいいじゃないか。自分の好きなことと親しい人くらいにしか興味がない。どうでもいいって思うのは悪いことなのか。こう思うのは、自分だけなのだろうか。いやそうでもない。じゃあ何なのか。
「どうでもいい」では会話にならないこともわかる。何言っても「んなことどうでもいいよね」みたいに返してくる人と、話をしたいとは思わない。
どうするか。どうやって自分を偽るか。フィクションの世界だ。そのフィクションを積極的に維持していかなければならない。本音むきだしの言葉では、世界は成立しない。
「話をしてくる相手がどういう人間なのか」。分析しながら話すと、たのしいことに気づいた。
道化だ。みんな、道化がうまかっただけじゃないか。
竹内友『ボールルームへようこそ』
どうやって魅力を説明すればいいのか、ずっと考えていた。もちろん少年漫画的な面白さは満点である。絵の艶もあって、かなりおもしろい。
しかしそれだけでは、第5-9巻の魅力を説明できない。物語が一見進展していないように見えるこの部分を、どのように解釈するか。なぜぼくは、この部分に魅力を感じているのか。
カップルへの憧れだった。
第5巻で、主人公の多々良君はちーちゃんという女性と出会って、ダンスのパートナーに誘う。そのカップル関係を深めていくのが第9巻までである。ちーちゃんは男勝りな性格で、他人を受け入れることはしてこなかった。自分は他人より上だという壁を作って生きてきた。一方の多々良君は真逆である。他人の意向ばかりをうかがって、自分がなかった。
お気づきだろうか。この両者は、お互いにとって心理学的なシャドーを形づくっている。自分が見ないようにしてきた自分、否定したい自分、わかってはいるけれど直面したくない自分。ちーちゃんからすれば、ダンスをやるには女性の側がフォローをしなければならないこともわかっている。昔からそこが欠点だった。しかし性格的に直せない。どうしてもリードをしたくなってしまう。多々良君からすれば、仙石さんのように立派なリードをできるようになりたい。しかし自分を表現したことのない臆病である。これまでの人生ではリードの適性がなかった。身近なリード主体のカップルを見て嫌悪感があるけれど、自分なりのリードをしなければならないのもわかっている。しかしできない。
両者にとって直面したくない自分と直面しているのが、ちーちゃん&多々良君のカップルなのだ。
だからこそ、ふたりのダンスはちぐはぐになってしまう。お互いのことを理解したくないのだから当然だ。無意識に身体が相手を拒否する。「あんたがわからない」。
この状態でも外形的には踊ることはできる。しっかりとした姿勢でスタンダードを踊る。つじつま合わせはできる。しかしその状態は、カップルの一体感とは対極の状態だ。わかる人にはわかってしまうのだ。こいつらはダンスをしていないと。
もちろん違和感を抱きながら踊っているちーちゃんと多々良君が、いちばんよくわかっている。理想と現実の乖離。成長していない自分たち。成長を求められる外的環境。ストレスが増していく。
ふたりの目標は一致していた。よいダンスを踊りたい。このチャンスを逃すと、もう踊ってくれる相手はいないかもしれない。ここでうまく踊れないと、ライバルと同じ舞台に立てない。
「「それは嫌だ。今しかない」」
ふたりは正面からぶつかりあう。喧嘩しあえる仲になる。いままで相手を見てこなかったことを認識して、お互いを理解しようとする。相手を受け入れようとする。シャドーである相手を受け入れることは、大きな痛みをともなう。抑圧してきたけれど、立ち向かわなければならない自分の弱さと向き合う。その弱さを受け入れないと、ほんとうのカップルにはなれない。
どんなに絶望的な状況でも、ふたりは逃げない。「結局は他人。わかりあえない」などという弱音は吐かない。「他人だ。だからこそ向き合っていかないといけない」。それには、それぞれ自分をさらけださないといけない。思春期の少年少女にとって、自分をさらけだすことはどれだけつらいことだろうか。自意識の檻を開けて、相手を招きいれないといけない。
そして第9巻の最後では、異質な他者を受け入れて一体となった感覚を描いて終わる。「ふたりでひとつ」という一体感の領域に入る。たぶん10巻では、この一体感とともに優勝ないし準優勝するのだろう。
カップル競技としてのダンスを描ききった瞬間だと思った。まこちゃんとのカップルでは、多々良君は自分の弱さと向き合わなくてよかった。多々良君の特徴を活かせばよかった。しかしちーちゃんとでは、自分の弱さと向き合う必要があった。
ここですごいのは、ちーちゃんの弱さも大きな要素として描ききっていることである。主人公とそのパートナーは、カップルを組むことで、両者が一段成長しダンスもよくなった。人格の成長とダンスの上達を結びつけたことこそ、『ボールルームへようこそ』のすばらしい点であろう。カップル競技を描くことで逃げたいけれど逃げられない状況を生み出し、その葛藤をじっくりと描いていった。両者それぞれの葛藤を克服することは、単純な足し算ではなく、掛け算としてダンス的な成長にあらわれるのだ。うつくしい。
思えば、主人公とパートナーの弱点をそれぞれ設定し、同じくらいの分量で描き、その克服を相乗効果として結果に反映させる物語を思いつかない。難しいからだろう。
カップルとしての一体感の難しさ奥深さ。ダンス競技を描く意味がここにあったといえる。だからこそ、ぼくは魅力に感じたのだ。
ここまで他者と向き合うことは、いままでの人生であっただろうか。恋人どうしでさえも、自分の奥底までさらけだしあって、一体感のその先までいったことはあるだろうか。
ちーちゃんと多々良君が真摯に自分と相手と向き合う姿を見ながら、はたしてぼくは誰かと関係できているのか、見せかけじゃないのかと自問する。
さらけだせないよなぁ。
妙顯寺
京都の拝観料は高い。そこらの社寺に入ろうと思えば500円かかるし、有名なところだと700円もかかる。強気な値段設定だ。毎週のように観光しているので、硬貨が財布から消えていく。500円に見合うものがあれば文句ない。けれど、実際になかに入ってみると、アレこんなはずじゃなかったと落胆することもある。正直、もう来ないぞ……というのもある。
妙顯寺は良心的な値段設定。300円で、とてもコスパがよい。
本堂がすごい。磬子(けいす。読経の最中に僧侶が叩くあのおっきな鐘)を鳴らすことができるし、多くの仏教彫刻を間近で見られる。天井から垂れ下がる金色の幢幡(どうばん)も全周囲から確認できる。
お堂特有の静かな緊張感のなかに、たったひとりでいられる。このお寺は穴場なのだ。誰もいない。ごぉぉぉんと鳴り響くお堂で、静かに手を合わせる。
庭も悪くない。勅使門を入ったところの庭は、枯山水がある。
滝から流れ落ちた水が海に注いでいる。海は凪いでいる。それをあらわすために、砂紋は描かれていない。右手奥の枝垂れ桜の存在感は無視できない。桜の季節にはいいものだろう。
坪庭には竹が植わっている。なんだろう、坪庭はいいものだ。周囲を建物に囲まれた狭い空間に、ほっと一息いれるように出現する。光がうまく射し込んだときには陰と陽が強調される。そのバランスを、竹の葉が揺るがす。風がすこしだけ吹きぬける。
無鄰菴の坪庭にも竹が植わっていたことを思いだす。たぶん坪庭だけを集めた写真集があるな。三井家別荘の坪庭には、石が置かれていた気がする。写真集、ほしい。
いちばん奥には曲水の庭がある。ただし水は入っていない。ここの松がよい。赤松と黒松。赤松の枝の曲がり具合がなんともいえない。
これで300円か。もっと取ってもいいんじゃないか。紅葉や桜の季節にまた来たい。