白くま生態観察記

上洛した白いくまもん。観察日記。勝手にコルクラボ

司馬遼太郎『竜馬がゆく』

司馬遼太郎竜馬がゆく』(文春文庫、1974-1975)

 

むかし、ある人がツイッターで呟いていた。

思いだして、秋の古本市(百万遍)で買った。全8冊。しめて600円なり。

 

いやーおもしろかった。

坂本竜馬を中心に、幕末史を追っていく。まず、坂本竜馬の造形が面白く読めた。

 

坂本竜馬は、当初、知的コンプレックスの塊として描かれる。幼少に「勉学ができない」と刷り込まれた彼は、自尊心を築けない。

やがて剣をはじめる。剣の道は、彼にとって救いであり逃げ道だった。国許を離れ、一心に修行する。剣は彼の自尊心を形づくる。

剣の道と不可分な人格的な成長という意味では、重吉との30番勝負が圧巻である。彼は最初と最後だけ勝つ。あいだの28本はわざと負ける。他者からの視線を超越したのだ。目の前の勝ち負けにとらわれない。長くみれば、相手の自尊心を傷つけないほうが、いい結果になると判断した。圧倒的な勝ちは、相手を傷つける。

自己を、築きあげた。

それでも、「勉学ができない」という刷り込みは抜けない。同郷の志士らに言われても、難しい話からは逃げる。志士らは宗教的に思想に傾倒する。そんな周りの流れに「なんとなく違う」と感じていた竜馬は、勝に出会う。方向性を確立させる。

剣の道で自己を確立し、勝に出会ってゆくべき道を見定めた。

修行が終わって、竜馬は土佐に戻る。土佐で勉強をする。方向性のもとで、自分の思想を確立させる。

ようやく、教科書で習うような、坂本竜馬ができあがった。

 

その竜馬が、さまざまな人物と出会い、さまざまな事件に巻き込まれる。最終的には、主要人物のひとりとして、薩長同盟大政奉還をなす。

 

さて、この物語の何が面白いのか。

もちろん、竜馬の人生をたどるのは面白い。人格的な魅力と行動力があわさって、さまざまな人と出会いながらことをなしていく。ひとりだけ、見えている世界が違う。こういう男になりたいな、と思う。単純に、かっこいいのだ。

もちろん、幕末史も面白い。ひとつの時代が終わり、次の時代へと移り変わる。歴史のきしみというか不協和音というか、そういう不和がじわじわ高まって、はじける。ぼくらはそれを知っている。

 

ぼくは、この物語に政治を読みとる。なまの政治が描かれているから、面白いのだ。

竜馬は、人であると同時に思想なのである。

あるひとつの思想が、ほかの思想とぶつかりながら、現実的制約とぶつかりながら、時代とぶつかりながら、あるとき何かに結実する。そこには対立があり、妥協があり、駆け引きがある。知恵も大きな役割をはたす。

この物語は、竜馬からの視点だけではない。筆者がときおり出てくる。「余談であるが、」「この話は必要だから書いておく」「もう少し余談を続ける」。政治を描くには、竜馬だけではなく、相手側の視点や時代を記す必要がある。そうしてこそ、生きた政治になる。

血の通った人間がいて、成し遂げたい構想があって、構想と構想・組織と組織がぶつかって、時代の構造に挑戦して、妥協しながら次の時代へのうねりを作る。さまざまな人間がそれぞれの役割をもつ。

政治は、人と人とのあいだに生まれる。

 

人物史や幕末史を通して、血の通った政治を描いた。

だからこそ、古びない。

青木琴美『虹、甘えてよ。』

青木琴美『虹、甘えてよ。』第1巻(小学館、2017年)

 

少女漫画である。しかし少女漫画ではない。

「その後」を正面から描く物語。

 

漫画を読む人なら、青木琴美という名前は聞いたことがあるはずだ。たとえなくても、『カノジョは嘘を愛しすぎてる』や『僕の初恋をキミに捧ぐ』という題名には、心当たりがあると思う。その作者である。

 

こんな講釈はいらない。

とりあえず、読んでほしい。小学館のサイトで第1話を読める

キミは僕の、親友の彼女。[虹、甘えてよ。 1]青木琴美 - チーズ!ネット

ただし、重いものが苦手な人は、以下のブログを先に読んでほしい。なんとなく、何があったのかを察せるように書いたつもりだ。

 

きわめて漫画的な漫画である。最小限のコマで、テンポよく進んでいく。記号的な表現を効果的に用いて、導入をサクッと進める。ぼくらは、語り手の男子高校生に、いつのまにか感情移入させられている。熟練のうまさを感じる。

簡単に冒頭を追っていく。

虹というヒロインを、こころの底では好きだと思っているのに、はっきり好きだと認識できない主人公。

親友と虹が抱き合っている姿を見てしまう。

――あの子は、ぼくの親友のことが好きなんだ。

 

しかしこれは彼の誤解だった。

親友は、虹のことが好きなのではなく、重要な打ち明け話をしただけだ。ふたりが抱き合っていたのは、その打ち明け話の重大さに、心と心のつながりを感じたからこその行動だった。なんでも恋愛に変換するのは、年頃の悪い癖だ。

 

誤解なのだが、彼は自意識に阻まれて、虹のまえから逃げてしまう。

 

さて、ここまでは、普通だ。

厳密には普通ではない。斬新な内容がある。

けれど、あえて「普通」といいたい。

この次の場面こそが、「少女漫画ではない」からだ。

 ある事件が起こる。無音で写真のようにコマが送られる。ぼくらは何があったのか、容易に理解する。これを読んだときの衝撃は、言いつくせない。キュンキュンを読もうと思ったのに、「裏切られた」気もちが強かった。

 

この事件と、次の日の彼女の拒絶反応。

そして、事件があっても、

「あんなやつのせいで

わたしを

わたしを

変えられてたまるか」

と叫ぶ彼女。

そんな彼女を目の前にしながら、抱きしめてはいけない、主人公。

 

連続して、心の奥がえぐられる。

はっきり言って、重い。重すぎる。

受け入れられない人がいるだろう。『聲の形』と一緒だ。

 

それでも、この漫画が何を描こうとしているかが伝わってくる。

「その後」を正面から描こうとしている。

このテーマを正面から描けば、自然と重くなってしまう。第1巻の最後でも、○○恐怖症が発症する。

 

けれど、熟練の筆だから、軽い描写を適度に挟んでくれる。

重いだけではないから、読みつづけられる。

そして、最後には救いがあると信じられる。だから読みつづけようと思える。

 

心に深く傷を負った少女は、どのように救われていくのか。異性としての男に、甘えられるようになるのか。

自分のせいで彼女に傷を負わせたと後悔する主人公は、「甘えてよ=頼ってよ」なんて言う資格がないと思っているはずだ。はたして、言えるようになるのか。

人間の強さ

マツコの知らない世界』を見ていた。いろんな分野のオタクが出てきて、好きな分野を紹介していく番組。触れたこともない世界が目の前に広がるから、楽しい。

さて、ホットケーキミックスの回である。

この番組では、ゲストが「なぜ対象にのめりこむようになったのか」を説明しながら、自己紹介をする。なぜホットケーキミックスにのめりこむようになったのか、ゲストは語りだした。「拒食症で、24歳のとき24キロまで体重が落ちちゃって……入院したんですね、死ぬ寸前だってことで」。

ほんとうなら、入院生活の話をして、ホットケーキミックスに救われた体験を語る予定になっていたと思われる。

しかし、語っていくうちにゲストは涙声になっていく。目も潤んでいく。やがて、言葉が続かなくなってしまう。

拒食症のときの、壮絶な体験を思いだしたのだろう。成人女性が24キロしかないのは異常だ。たべようとしても、たべられない毎日。食べものを口に入れても、吐いてしまう。家族や仕事先、大事な人にまでかなり迷惑をかけて、私生活はぐちゃぐちゃになったはずだ。

まして初対面の人たちを前に、慣れない場所で語るのだ。何台ものテレビカメラが前にある。ライトに照らされる。周りの視線はすべて自分に向かってくる。

極度に緊張しているのに、それとは真逆に、自分のもっとも弱いところを語らなければならない。

同じ状況に置かれて、泣かない人間など、いない。

ぼくは「泣いてもいいんだよ。落ち着いてからでいいから、大丈夫だよ。ごめんね、そんなこと話させちゃって」とテレビに言いながら、自分勝手にも、つらかった記憶を重ねてしまった。そうして、涙ぐんでいる自分を発見する。

画面が変わって、ゲストは語りだした。一時的にメガネが外れている。涙を拭いて、再出発したのだ。がんばって、と応援した。

 

『スーパープレゼンテーション』を見ていた。アメリカのプレゼンテーション番組をNHKが再編成したものである。ネットでも見られる。むかし紹介した。

今回は、生と死について。

ひとりめのプレゼンターは、元警察官。自殺しようとする人を、思いとどまらせる仕事をしていた。場所は、アメリカの有名な橋。

「自殺しようとする人がいます」と通報がある。自殺志願者は、橋の欄干を飛び越え、外側のパイプに乗っている。眼下には水面。落下すれば、数百メートル先の水面に全身が叩きつけられる。全身の骨が折れ、凶器となって内臓を突き刺す。ほぼ間違いなく、死ぬ。

元警官は、そういう人たちに、飛び降りを思いとどまらせる仕事をしていた。数百名の命を救い、助けられなかったのは2名だけ。その経験から、自殺しようとする人に対して、どう対応すればいいのか、説く。「話を聞いてあげてください。ただ聞くだけでいいんです」。

 

もうひとりは、コミュニティの再生に取り組む人。使われなくなった建物の壁に、「もし私が○○だったら……」みたいな掲示板を作って、地域の人に書きこんでもらう。壁に何か書くのは楽しいから、みんな書きこむ。そうして、街角にちょっとおかしな、ちょっと人間味のある掲示板ができあがる。

「この町には、顔はわからないけど、こんな人たちも暮らしてるんだ」。人生が交差する瞬間を作るのだ。

プレゼンターは、「死ぬ前に、私は○○したい」という掲示板を出現させたときのエピソードを語りだす。

 

2009年に私は大切な人をなくしました。ジョーンという名の私にとって母のような人で、それは予期しない突然の死でした。それから死についてよく考えるようになって、自分に与えられた時間をありがたく感じ、自分に与えられた時間をありがたく感じ、自分の人生にとって大切なものが何なのか、はっきり見えるようになりました。でも日常生活の中で、その視点を維持するのを難しく感じてもいました。日々の些事に追われて、大切なものを見失いがちだったんです(https://www.ted.com/talks/candy_chang_before_i_die_i_want_to/transcript?language=ja

 

スライドには、「死ぬ前に私は、海賊罪で裁かれたい」という中年の男性の写真が映し出される。もちろん彼は、海賊のコスプレをしている。会場にはどっと笑いが沸き起こる。ぼくも、笑った。そこには、人生を楽しむ人間がいた。

大事な人をなくすエピソードを語りながら、この人も涙ぐむ。「母のような人」なのである。単純な母ではない。血がつながっていないのに、自分にかかわってくれる必然性がない人なのに、あんなに未熟だった私につきあってくれた人。たくさん迷惑をかけたのに、それでもやさしく厳しく接してくれた人。

そういう人をなくした経験を語れば、自然と想いがついてくる。たぶん彼女の目の前には、ジョーンさんがいた。泣かないわけがない。

 

こういう人たちを見ながら、数年前のぼくだったら、どう思うか考える。

「テレビに出るってわかってるんだから、泣かないように準備しろよ。自分の弱さを、少なくともこの場ではこらえろよ。みっともないなぁ」

と思っていただろう。人前で泣くのは、弱い人間の証だと思っていた。役割をまっとうしろよと思っていた。それが強い人間だと思っていた。

けれど、違うのだ。

泣いて、でもそこでやめずに、「わたしは伝えにきたんだ」と決意して、話だす。

弱くなっても、覚悟を決めて立ちあがる。ここに強さがある。人間がいる。

プレゼンの観客も、スタンディング・オベーションをしていた。

『蔵』水出しコーヒー

高校生まで、コーヒーが飲めなかった。

子どものころから、親がコーヒーを淹れたときに部屋中に広がるコーヒー独特の匂いが嫌いだった。中学生のとき、「おいしいよ」と言ってくるので、漂ってくる匂いに鼻をつまらせながら一口飲んだ。経験したことのない苦さが口を覆う。ほら、やっぱり、まずいじゃないか。こんなまずいものをなんでおいしそうに飲むのか。舌が狂ってるんじゃないか。「うっへ、まずい」顔をしかめるぼくを見て、親は「大人になればわかるよ」と笑う。大人になれば、という言葉にあらわれる「まだまだ子どもだなぁ」という感情も嫌だった。

コーヒー牛乳なら飲めるだろうと、コンビニで買ってみる。あまりにもまずい。カフェオレは? これもまずい。コーヒーゼリーは、親戚の小学生の好物だし、食べられないわけがないよな……ダメだ食えん。

 

大学に入って、みんなでカフェに行く。ホットコーヒーやアイスコーヒーを頼む友人を見ながら、やっぱりコーヒー飲まなあかんよなと思って、アイスコーヒーを嫌々頼む。氷で薄まるし、シロップあるし、飲めないことはないだろうとの判断だ。

席について、飲んでみて驚く。まずくない。氷で冷やされていて、苦みをあまり感じないし匂いも気にならない。なんでだろうと思う。わからない。シロップを入れてかき混ぜる。あれ、普通に飲める。いままで苦手だったのはなぜなんだ。

それでも、おいしいとは思えなかった。友だちは毎朝飲むと言っていたけれど、自分もそうしようとは思わなかった。

 

美味しんぼ』で水出しコーヒーの回があったなと思いだして、池袋の『蔵』に行ってみた。本物を飲めば、おいしいと思えるかもしれない。どこかしら、大人の男はコーヒーを嗜む、みたいな憧れがあった。

水出しのアイスコーヒーを飲む。なんだこれは、と驚いた。重厚な苦みがズドンと舌に襲いかかる。ぜんぜん嫌な香りはしない。重厚だけれど、くどくない。いままで飲んできたアイスコーヒーと比べて、圧がぜんぜん違う。圧倒的に線が太いのだ。くっきりとした苦みが口のなかにある。これはうまい。大きな氷がグラスに当たってカラカラと乾いた音を立てる。

シロップを入れると苦みのうしろに甘みが加わる。ほんのりとした甘さが、苦みと引きたて合う。しかし相殺しない。

ミルクも入れてみると、コーヒーミルクができた。これがもう、めちゃくちゃうまい。もちろん、この店のミルクはプチっとやるやつではない。小さな容器に入ったミルクを、好きなだけ注ぎ込む。黒いコーヒーに白いミルクを入れてストローで混ぜる。この色をなんというのかわからないが、灰色ではないことは確かだ。コーヒーとシロップとミルクと混ぜるだけで、こんなにおいしいコーヒーミルクになるのかと感動した。すぐになくなってしまった。

『蔵』の水出しコーヒーはおすすめ。暗めの照明で、シックな内装。19世紀のイギリスみたいな調度品とともに、いい雰囲気の店だ。

 

いちどおいしさがわかると、好きな人たちは何を求めていたのかがわかる。この苦みであり、酸味であり、香りなのだ。それらをひっくるめた体験だった。

なるほど、こうやって楽しむわけね。

楽しみかたがわかると世界が広がる。感動するようなレベルのものにはなかなか出会えないけれど、それなりにうまいものをうまいとわかるようになる。ほかの趣味でも、楽しみかたを教えてほしいんだよなぁ、と思う。方法を身に付けることが人生を豊かにする。