白くま生態観察記

上洛した白いくまもん。観察日記。勝手にコルクラボ

奥の業

居合の動画をとった。

居合をはじめて2か月の動画では、ぜんぜん居合の動きになっていなかった。カクカクとした動き、不自然な重心の位置、風切音のない刀の振り、ふわっとした納刀……あげていけば、いくらでもある。ひどい。ここまでひどいと、ほほえましい。

けれど、今回は居合の動きになっていた。半年間の稽古はしっかり実を結んでいた。感動した。なめらかな連続性ある動作、一瞬の力の解放、吸いつくような重心移動。映像を再生した瞬間に、「おお、こいつうまいじゃん。誰だよ」と思った。ぼくだった。じつはここ1ヵ月、右手首を骨折して刀に触れていなかった。それでも、ちゃんと居合の動きになっていた。基礎動作が身体にしみついた証である。刃先もブレていなかった。

自分の動きを客観的に判断したら、へたな2段3段よりも居合の動きになっている。居合の身体さばきの論理を把握したといってよい。大学の廊下をすり足で歩いたり、洗面所にある大きな鏡で形の確認をしたりしているから、まあ多少はね? 最低限のレベルには達したと思う。鏡の前で動いていると、知り合いに「ナニやってんの」と白い眼で見られてるけど……居合をしています。

細かいところに修正すべき箇所はある。それは現在の流派の正しい形にあわせればよい。修正できるくらいのレベルには達した。業もどんどん覚えていく。

大きなところを考える必要がある。

呼吸法への意識が足りない。対敵行動を継続するための基本だから、早く体得したい。息があがることは負けを示す。

体軸がブレてしまう。外から見ると気にならないのだけれど(着物が身体の揺れを隠すから)、本人はわかっている。あと5キロは増量したい。体幹部のインナーマッスルも意識的に鍛える。

 

「なかなかやるじゃん、ぼく」と悦にひたっていたのは、昨日まで。

ちょっとした機会に奥の業を教えてもらった。奥というからには、初心者用ではない。上級者向けの業。

ぜんぜんできなかった。動作の基本原理からして違う。普通に歩いていたら、いきなり両隣に敵がいるとか。田んぼのあぜ道で、正面から複数の敵があらわれるとか。壁沿いで敵が目の前にいるとか。お辞儀をしながら、相手の虚をついて斬りかかるとか。なんでもありだ。

基本原理を身体に染みこませたうえで、その基本をそのまま適用できない環境を想定して、どう身体と刀を動かすのか。

これを考えないといけない。

いまやっている形は、展示用の形なのだ。想定(理合い)はたしかにあるけれど、現実離れしている。目の前の敵が生きていない。そのレベルで、いい気になってるんじゃねぇぞ。ぜんぜんだわ。

石塚真一『Blue Giant(ブルー・ジャイアント)』

石塚真一Blue Giant(ブルージャイアント)』全10巻(小学館

 

この漫画をひとことであらわせと言われたら、何と言うか決めてある。

安全圏にいることをゆるさない漫画だ。

ぼくらは物語を読者として読む。物語世界と現実世界は断絶したものだ、という前提のもとで物語を味わう。どんなに感情移入しても、ある種フィクションだから、現実ではないから。という安心がある。

主人公がどんなにかっこよくても、どんなに強くても、どんなにいい人間でも、「現実とは違う世界の人間なのだから」と一歩踏み出さなくてすむ。だって彼は想像の世界に生きているんだから。現実の厳しさを知らないんだよ。ぼくは生身の人間なんだから、彼みたいになれなくてもしょうがない。

ぼくらは安全地帯から物語を楽しんで、ひとりでこっそり言い訳ができる。

しかし、この漫画は安全圏から無理やりに引きずりだしてくる。

主人公はまっすぐすぎるほどにジャズの道を登っていく。ジャズで食べていくのは厳しい。周りにもプロで食べていくのをあきらめた人間がたくさんいる。でも彼は、自分で決めたから、好きだから、いつかなる、と毎日毎日努力を欠かさない。

どうにも現実としか思えないのだ。ぼくが生きているそばで、こんなにも命を燃やして生きている若者がいるんじゃないかと錯覚する。同時に、これが現実であることも知っている。芸術系でプロになるような人間は、こういう人間でなくてはいけない。実際にいるのだ。

「おまえは何で本気でやらないんだ? 本気になって、自分を世界にぶつけてみろよ。俺らの演奏を見てるだけじゃなくて、一緒に舞台にあがろうぜ。強烈に生きろよ。こんなもんじゃねえだろ」

身体の芯まで震わせてくるジャズから、強烈に伝わってくるのだ。

――お前は、どう生きるんだ? 

いっちょ無様に生きてみようじゃないですか。

 

閑話休題

音楽を扱った漫画につける定番の文句として、「音が見える」や「音が聴こえる」というものがある。でも、この漫画を読むと、違う感想になるはずだ。

なまやさしい音じゃなくて、楽器が震わす振動そのものが伝わってくる。ビリビリ震える空気が、鼓膜だけじゃなくて肌全体を震わせてくる。そこにあるのはペラペラの紙であるにもかかわらず。

安全圏にいるのをゆるさないという意味はここにもある。演奏する場所から遠く離れて音だけを聴くのではなく、演奏する場所に分け入って、直接振動に身を任せる。自分のなかから湧きあがってくる衝動に身を任せる。演奏に引きずりこまれる。

そしてぼくらは気づく。

楽器が震えるから音が鳴るのではない。演奏者の感情が、楽器を通して振動に変換されるから、ぼくらに届いているのだ。感情が直接身体に叩きこまれるのだ。

「感情がぶつかってくる」

 

【構成・あらすじ】

主人公の宮本大は、たまたま聴いたジャズの演奏で心を打ち抜かれる。その瞬間、テナー・サックス奏者として、世界一のジャズ・プレーヤーになることを志す。その成長を追った物語である。

 

物語と現実を近づける構成上の工夫は、たくさんある。

①お金を前面に出してくる。音楽を志す以上、現実は異常なほどに厳しい。まず食っていけない。バイトに精を出したり、一回の演奏でもらえるお金だったり、シビアな現実を描く。

②主人公の周りの人間をちゃんと描く。音楽一本の人間だけではなくて、親や兄弟がどう思っているのか。同級生はどう思っているのか。周りにいる普通の人間をしっかり描くことで、現実感をもたらしている。

③プロで食べていくことをあきらめた人間たちがたくさん出てくる。音楽教室の先生は、どんな想いで教えているのか。バーや楽器店の人間は、音楽に何を思っているのか。プロをあきらめた人が、それでも生きていることを描いている。現実だ。

 こういった工夫をしたうえで、ただまっすぐ前を向いて走りつづける主人公を描いていく。そういう人間と一緒に高みを目指したい、まだ見ぬ世界に連れていってほしい。読んだ人は、みな心を打たれるだろう。

 

【名言集】:ことばが迫ってくる。すばらしいんだ。

ジャズは感情の音楽なんだ。

すげえプレーヤーの音やメロディには 感情がもろに乗っかってる。

うれしくても悲しくても、どんな気持ちも音に込められるんだ

 

ものスゴくメチャクチャな演奏

でも一発でホレました

 

ヘタの何が悪い

ヘタから始まるのが音楽なんじゃないですか?

みんなヘタクソから始まるんだ。

音が出ないとこから始まって、一つずつ音が出せるようになって……

けど、ヘタだから……ヘタクソだから練習して……

そしていつの日か、誰かの気持ちに届く音を出す

この人達の音楽に救われる日は来ないと、どうして言えるんすか

ヘタクソでナニが悪いんですか

 

――お前、世界一になりてえんだ

はい

――ふーん。で、どんな感じなのよ? 世界一のジャズ・プレーヤーってのは。

音で……音で言えるんです

気持ち……。感情の全部を音で言えるんです

音にしたい気持ちとか感情とか……どんどん。

出したい音なら、いくらでも湧いてくるんですよ

 

師匠のサックス、超――スゲエす!!

――うん、上手いだろ

はい!! 上手すぎす

――全然ダメだ

は?

――これじゃダメなんだよ。

「上手い」のはゴマンといんだわ。

お前の方が上なんだよ。

オレのプレーでバードのオッサンは泣かねぇ。や、泣けねぇ

俺の音は、良くても感動、お前はその上……

お前の音は人を「圧倒」できんだよ

 

今日、お前に拍手を送った人間のほとんどは……生のジャズを聴くのは、初めてなんじゃないか?

だから拍手したんじゃないか? 「初めてのモノ」に拍手をしたんじゃ?

もしも今日の客がお金を払ってお前を聴いた時、はたして何人が拍手をするんだ?

時には調子に乗ってもいい。

だが、酔うなよ、大。

酔ってて勝てるような世界じゃないんだよ

 

 

息子さんからは月謝取りませんが

面白いモノは、金を払って観ますよね

息子さんは面白い。だから月謝は取りません

 

お前のおかげで、オレはすこしだけまたジャズが好きになった

お前はずっとずっとずっと、ジャズを好きでいろよ

 

仙台出る時は、飯なんか食えなくても、サックス吹きまくってやるって思ってたけど

甘くねぇべ。

金がないって……甘くねぇべ

 

吹くことが大事にすることだと思ってたけど……

大事なものは、大事にしないとダメなんだな

 

俺は他の人がどうとか思うより……必死です。

俺しか出せない音を出すことに、必死です。

 

「やりたい」ってだけで、十分じゃねぇの

「楽しそう」ってだけが、入り口なんじゃねぇの

「音楽をやりたい」って気持ちに、お前、「ノー」って言うの?

 

オレは……ウマくてもヘタでも……感動できればいい

 

そもそもオレがジャズを本気で始めたのは、

本物のジャズ・プレーヤー、ジャズの巨人たちが削興中に体現する

技術や経験を超える……何かに導かれるような「超自然的な演奏」のためだ。

クラシックやロックではありえねえ、

即興重視のジャズだけに許された瞬間……

聴いている側をも、どこか別の場所に連れていく感覚……

俺はまだ、体験できてねぇ

 

大は玉田にあんな顔させていいの?

俺たちのために頑張ってあんな顔させていいの?

頑張るってのは本人のため、自分のために頑張るモンじゃねぇの

 

マスター、ギターある?

ちょっと負けに行ってくるわ

 

ボクは君のドラムを、成長する君のドラムを聴きに来ているんだ

君のドラムは、どんどん良くなっている

 

たとえ百円でもギャラがもらえるなんて……

とてつもなく、練習しがいがありますね

 

思い切り思い切って、毎日毎日出しきらないと

オレの持ってる全部を、毎日出しきらないと。

だって、幸せじゃないスか。

今までたくさんのプレーヤーがいたけど、きっと……ゴールについた人間は誰もいないんすよ。

ゴールがない世界でずっとやり続けられるなんて、最高に幸せじゃないですか。

それ以外のことは、考えないっす。

意味ないので。

 

なぜ本当のソロをやれてない?

君は、おくびょうか?

全力で自分をさらけ出す。それがソロだろ。

内臓をひっくり返すくらい自分をさらけ出すのがソロだろ。

君はソロができないのか?

 

楽器と自分のあいだの問題とか、カベみたいなモンは何回も来るじゃないすか。

カベを破れなかったら、終わりです。

仲間が何か手助けしても仕方ないし、たぶん何も変わらない。

でも、雪祈は破る

 

お前ならもっとやれる。こんなもんじゃないだろ。

 

音楽やっててよかったです

音楽やっててくれてよかったです

 

宮本大は、昔話が似合わないね

 

私、疑ったことないんだ。

宮本大が、世界一のサックスプレーヤーになるの。

疑ったことないから。

いつか世界一の宮本大を聴きに行くね

 

なんかこう、彼のカラがこうね……

パリパリとはがれていく音がきこえるような、新しい彼を見た気がしたなあ

映画『普通の人々』

ロバート・レッドフォード『普通の人々』(1980年)

 

ひさしぶりに泣いた。大泣きだった。鼻がグシュグシュになった。『素晴らしき哉、人生』(1946年)以来の号泣かもしれない。

人間の心を浮かび上がらせていく丁寧な描写に驚く。すばらしい。

この映画を見ながら嗚咽をもらしてしまう人を、ぼくは信頼する。人間に対する温かい目線を感じるからだ。人間の弱さと強さ。人間同士の孤独と愛。どうしようもないけれど、ぜんぶひっくるめてぼくらは人間なんだと。いま見てピンと来ない人も、これを嫌いにならずに、ぜひ10年後にもう一回だけ見てほしい。

ぼくは、『普通の人々』という題名に監督の温もりを読み取る。たしかにああいう事故が起こるのは、普通じゃないかもしれない。けれど、人間が生きて恋をして家庭を築いて仕事をしていれば、かならず同じような状況に直面する。

そのとき、家族が問題になるのではない。ひとが問題になる。すべてを自分の責任だと感じるひともいるだろう。残った人間をまるごと受けとめようとして、非のない人間を演じようとするひともいるだろう。見たくないものはなかったことにして、過剰に自己防衛的になるひともいるだろう。それぞれに自分の問題に向き合っていかないといけない。ぼくらと同じ普通の人々なのだ。普通の家族ではなく普通の人々という題名にした意味だ。

そういうときの人間の覚悟と強さを、ぼくは信じている。愛していると言ったほうが正しいかもしれない。もちろん、立ち向かえない人も描いているからこそ、『普通の人々』なのだけれど。

ぼくは人間を信じたい。母親も、いつか救われるといいな。

 

【構成・あらすじ】

夫・妻・長男・次男の4人家族。しかし、長男はヨット事故で死んでいる。

次男は「事故は自分の責任だ」と思い詰めて、自殺未遂をして入院していた。精神に過大な負担がかかって、感情を感じられない状態だった。カウンセリングに行くことを勧められる。

父親は、非のない夫・非のない父を演じようとした。自殺を試みるまでに追い込まれていた息子を、見ていなかったことを反省していたからだ。同時に、長男をとくに愛していた妻を気づかって、できるだけ妻にもやさしくしていた。

母親は、死をなかったとこにして普通にすばらしい家族を演じようとしていた。愛していた長男が死に、さらに次男も自殺未遂をしたことで、世間に顔向けできない家族になってしまったことを怖れた。退院したばかりの次男に愛情を注げず、次男ばかりを見る夫にも不満を感じていた。

この3人を軸に物語が進む。

次男はカウンセリングや水泳部からの退部、好きな女の子とのデートを通して、生命力を取り戻していく。最初は憔悴しきって世界におびえていたけれど、怒りをあらわせるようになり、だんだんと自分を取り戻していく。回復してきたときに、ある友人の自殺で窮地に追い込まれる(友人も入院していたけれど、退院してからは弱い自分を偽って強がっていた。心が耐えきれなかった)。次男は信頼できる人に助けを求めて、その人の助けを借りて、長男の事故にほんとうに向き合う。直面したくない記憶に向きあって、それを受容することで、彼は変わる。自分のことで精いっぱいだったことを認識して謝る。もういちど父と母を愛せるようになる。

父親もカウンセリングに行く。家族の問題を話し自分のことを話して、気づく。自分は、見たくないものから目を背けて、問題に直面しようとしてこなかった。非のない親になろうと思っていただけだった。自分の妻が長男の死を受けとめられず、家族への愛を失っていることに気づきたくなかったのだと。父は変わろうと決意する。

母親は、夫から「長男の死を受けとめよう。なかったことにせずに」という話をいくども受ける。けれど、いまさら話をむしかえさないでよ、と断る。変わりたくない。愛していた長男の死をなかったことにして、これからも生きたい。過剰に自己防衛的になってしまった。変われない。

最後、父は「妻の愛情を感じられない。距離を置こう」と言う。

母親が出ていったことに気づいた次男は、父に言う。「ぼくのせいだよね。ごめんなさい」

父は怒る。「なんでも自分のせいにするな。誰のせいでもない。結果としてこうなっただけだ」

次男は、父に怒られたことに感謝する。父親が感情をぶつけてくれたのは、長男の死以来だったのだ。

世界とのつき合いかた

NHK『U-29』をたまに見る。若者が自らの人生を切り拓こうと苦闘するさまは、応援したくなる。将来に向かって盛り上がっていくエネルギーに満ちあふれている。

 

今回は日本酒専門の編集者の話。

サシ飲みが苦手という彼が、その理由を語る場面。

相手と一対一で話して情報を引きだすことは、インタビューするときに必須の能力だ。自分を守るのではなく、自分をさらして相手の懐に入りこむ技術が必要になる。でも彼は苦手だった。なぜか。

「自分のことが好きなんですよね。それが一番大きい。

自分のことを非常に強く肯定しているので、他人にがっかりされるのは、その肯定が崩されるという不安がある」

だから、自分をさらけだすことに抵抗があるということだった。

 

感情を言葉にしようと試みている。すばらしい。

しかしあと一歩のところで失敗している。おしい。

自分のことを好きなのはただしい。自分のことが好きだから、傷つきたくない。これを自己愛という。

けれど、自分のことを強く肯定しているというのは、間違っている。この人は肯定しきれていない。肯定しきれていないから、他人にがっかりされるのが怖いのだ。

自分のことを肯定しきれていると、他人にどう思われようとも関係なくなる。すでに肯定されているのだから、赤の他人がどう言おうと「だって、これがぼくだし」と傷つくことはないのだ。日本酒をテイスティングする能力が高いこととは関係ない。能力を肯定できても、自分そのものを肯定できていない。

自分で肯定できずに、他人に肯定してもらいたいから、他人の意向を気にする。だから他人にがっかりされると、自分が傷つく。デキる自分を見せなければ、他人にがっかりされると思いこんでいる。

この人は他人から低評価されるのが怖いんだ。だから、自分をさらけだせないんだ。自分の考えていることは、くだらないことばっかりだから。くだらないことをさらすと、他人にバカにされると思っている。

人間はみんな、くだらないことばっかり考えていることに思いいたらず。 

 

番組内でも示唆されたように、こういうひとは、①自分をさらけだしても、他人はそんなに気にしないんだという経験を積む必要がある。むしろさらけだしたほうが、相手からするとつきあいやすい。場数を踏むことには一定の意味がある。

根本的には②注がれている愛を心の底から実感するといい。自分は実は愛されているのだ、という実感をえることで、真に自分のことを肯定できるようになる。そうすると、他人がどう思おうが問題ではなくなる。

自尊感情は、自分そのものを肯定できるのと、他人より優れている自分を肯定するものに分かれる。前者を身につけることで、世界の見えかたは大きく変わる。

彼は最後にこう言う。

「本音をだすのがめんどくさいと思っているうちに、本音をだす筋力が衰えていく」

めんどうなのではない。傷つくのが怖いんだ。目の前のひとの反応を直視するのが怖い。

 

――自分は、そんなに立派じゃない。なんとか表面だけとりつくろっているだけなんだ。自分が考えていることを表に出したら、どうしようもないことばかりでがっかりされるんじゃないか。

怖さを乗り越えて、いちど誰かにぜんぶぶちまけてみる。予想と違って、受け入れてくれる存在を認識する。もしかしたら世界は愛に包まれているのかもしれない、なんて思っちゃっていい。

そうやって、ただ自分をさらけ出すのではなくて、コントロールしたままさらけだせるようになる。コントロールの仕方こそが、人生における、世界とのつき合いかたなのだ。