白くま生態観察記

上洛した白いくまもん。観察日記。勝手にコルクラボ

共感する、ということ。

相手に共感することが大事というけれど、共感するにはどうすればいいのだろうか。相手の何に、どのように共感すればいいのか。

話し方の本で言われるように、うんうんとうなずいたり、相手の言葉を繰り返したり、要約して返したり。こんなふうにすることが共感するということなのか。

 

たぶん、そうじゃない。

相手の裏の感情を言い当てること。これが共感したと相手に実感させることなのだ。

 ※

 

ぼくは友達の相談にのっていた。

 

彼女は婚約を決めたばかりで、夫による無神経に怒っていた。夫が泊まりでキャンプに行くと言ってきたらしい。彼女が「誰と行くの」と聞いたら、悪びれることもなく女性もいるよと答えられた。

「婚約決めたばかりの時期に、女性もいるキャンプに行くってどういうこと? 少なくともキャンプに行くか決めるまえに、私に相談するでしょ」。

彼女はこう思ったけれど、何かそれを言うのも癪だなと感じた。自分の胸にしまって、ぼくに言ってきた。どうしたらいいんだろう……

なるほどねと言って、しばらく考えてこう返した。

 

「きみは彼がキャンプに行くことに怒っているんじゃなくて、自分が大事にされていないように感じたから怒っているんだね。不安でいっぱいなんだ」

 

彼女は「そう。そうなの!」と答えた。「女性とどっかに行くときは事前に言うって約束したのに。なんか大事にされてないかもって。考えすぎだとは思うんだけど」

ぼくは「大丈夫だよ、きみは大事にされてるよ。彼はちょっと考えるのが苦手なだけで、『キャンプに行くまえに言ったのに、なんで不機嫌になるのかわからない』って思ってる。すれ違ってるだけだよ。

不安が残るなら、不安をことばにして言えばいい。彼も受けとめてくれるよ。きみは彼を信じてるんでしょ」

 

 

感情の動きは、キャンプに行くと言われた⇒怒ったという単純な動きはしない。

不安を感じやすい世界観をもっているところに、キャンプに行くと言われて、不安が強く感じられて、しかし同時に彼を信じているから、不安を感じてしまう自分が嫌になって相手に告げられなくて……

こういうのがぜんぶ合わさって、もやもやして怒りとして感じられる。

 

きみは、大事にされているかどうかが不安なんだね。

 

相手に共感するというのは、怒ってるんだねと共感するんじゃなくて、怒りのもとの不安に共感することなのだ。

七夕

笹にくくりつけられた無数の短冊を見ているうち、なんともいえない違和感がわきあがってくるのを彼は感じた。

――なぜ、ほとんどの短冊が「……ますように」で終わっているのだろうか。願うだけでは意味がないじゃないか。願うのではなく、宣言したほうがいいのではないか。

「いつまでも健康でいられますように」と言うくらいなら、毎日30分走りますなどと宣言すればいい。「いい人が現れますように」と言うなら、自分からアプローチするひとになりますなどと言えばいい。神に約束して、実行すればいい。なんでこの人たちは、ただ願っているだけなのだろうか。

願うのは、誰かに人生を左右してもらいたいからだ。自分で人生を切り開くことから逃げて、誰かが自分の人生を良くしてくれることを祈っている。

違和感が怒りに変わっていく。自分の人生なんだから自ら動けよという気もちが抑えきれない。彼は短冊に思いを書き殴って、一緒に来ていた女性の短冊を頭越しに覗いた。「……ますように」ではないことを期待しながら。

「○○くんと一緒にいられますように」と書いてあった。思わず赤面して、暗くなった天を見上げる。悪いひとじゃないんだよな。良いひとなんだ。怒りは一瞬のうちに霧散する。彼は自分が最近思いつめていたことを実感した。願いごとを書くのが七夕なんだから、難しく考えなくていいんだ。もっと楽しんでいい。

なんだか笑えてきた。アハハッと笑う。覗かれてプリプリしていた彼女から「なんて書いたの」と言われて、しかたなく短冊を差し出した。「俺は東京オリンピックで金メダルを取る」と紙いっぱいに書いてある。

「自分のことしか考えてなかったんだ」と釈明した。

彼女は「キミらしいね」と言って、これ、私がつけていい? と仕草で示す。短冊を入れ替えて、彼らは笹にくくりつけた。「そういうところが好きだよ」と彼が言った。彼女はふふっと笑った。

RAD「五月の蠅」

ツイッターで「こんなの書くやつは許せない」とRTされてきた、RADWIMPSの「五月の蠅」の歌詞を見た。

気持ち悪さがぶわっとこみあげてくる。

生理的に嫌悪感をもたらす表現のオンパレードだ。言葉はわかるけど、何を言っているのかわからない。狂気を閉じ込めた詩だった。

 

そういう第一印象をもったまま、次の瞬間、ぼくの脳みそは客観的な評価に入る。

「詩だけ読むんじゃわからない。完成形は歌だ。歌を聞いてみよう」

Youtubeの公式チャンネルでMVを見ると、詩とはまったく違う印象を受ける。あまり日本語が聴きとれない(ぼくだけの問題かもしれないが)。感情をいれずに淡々を歌っているし、危ないところは楽器の音で覆い隠している。「きみをゆるさない」だけはっきり聞こえるけれど、こんなのは普通だ。

字面だけ見るとアウトだけど、歌にするとそうでもない。むしろMVで描かれる、じわっと粘着性のある血のような液体には芸術性さえ感じる。

完成形の歌としては、「ゆるさない」の裏返しとして、血を流すほどの歪んだ愛を表現している。

 

何度か詩を読みかえす。

表現方法は過激で、下劣で、犯罪的で、直接的だけれど、表現したい気持ちはあらわされている。憎悪と化すほどの愛情である。

直接的には、まだ愛している彼女に一方的に「ぜんぜん好きじゃなかった」と言われた彼氏の気持ちだろう。

どうしようもないほど好きで、いままで彼女も「私も好きだよ。結婚しようね」と言ってくれていたのに、実は二股されていたことに気づく。「ふざけんな、このアマ」。壮絶な魂の叫びである。結婚詐欺のイメージでもいいかもれない。

すべてをめちゃくにしたい、罰したい。サディスティックな側面がぶわっと噴出する瞬間。

 

もうすこし幅広く考えてみる。

これは「女性への愛憎」を描いていることは間違いない。

もし男女逆にしたら、どう感じるだろうか。「男に捨てられて、殺したいほど憎む。あいつなんかめちゃくちゃに破滅しろ」と願う。なんというかありな気がする。

 

ここまで考えると、依存するほど愛していた相手に裏切られたときの憎悪を、ここまで直接的に表現できた特異さがきわだってくる。

じわじわと自主規制が厳しくなっているいま、2010年代の音楽業界でこんな曲を出せるのか、と驚く。

 

音楽だけではなく、ほかの芸術と比べてみる。

深町秋生さんの『果てしなき渇き。』では、妻をレ○プする男が視点人物になったり、レ○プされる男子高校生の細かい描写があったりする。25万部売れている。

押切蓮介ミスミソウ』は、女子中学生の狂気狂気狂気。火をつけるし斬りつけるし斬り刻むし殺すし、という感じである。

こういう作品は好きじゃないから、多く読まない。しかし、そんなぼくでも、まだまだ上げられる。それは、そういう感情が自分のなかに深く爪痕を残していくからだ。毒が自分のなかに沈殿して離れない。

 

「五月の蠅」で描かれる感情は、珍しいわけではない。芸術って、そういうもんじゃないのと思う。「五月の蠅」は直接的過ぎるから、反射的な拒否反応を催すひとがいるんだ。

一流の作品は、そぉっと心のなかに忍び込んで、なんでもないように受け手の世界観を変えている。

駄菓子:蒲焼くん

日曜日だというのに、その動物園には僕と僕の友人と見知らぬ女の子しかいなかった。

 

僕と僕の友人はずっとゴリラとにらみ合っていた。ゴリラが突進してくるのを待ち受けるようにガラスに額を打ちつけたり、ゴリラが胸をどかどか叩くのにあわせてこちらも胸を叩いたり、ゴリラと一緒に吠えたり、アホウなことをしていた。

 

そのあいだ、女の子はずっと蒲焼くんを食べつづけていた。包装をぺりっと剥がして、なかの薄い板をもぐもぐと食べる。

もぐもぐ。

もぐもぐ。

手元の蒲焼君がなくなってしまうと、彼女はバッグのなかから新しい蒲焼くんを取りだして、ふたたび食べ始めた。ぺりっ。

もぐもぐ。

もぐもぐ。

もちろん、そんな音は聞こえたわけではないのだけれど、なんとなくそんな音が聞こえてきそうな振る舞いだった。ぺりっ。

もぐもぐ。

もぐもぐ。

彼女のバッグのなかには、いくらでも蒲焼くんがしまってあるようで、つぎからつぎへと蒲焼くんが取りだされる。

 

動物園の警備員も、あきらかにその光景に動揺していた。彼女に声をかけようとしたみたいだけれど、どう言えばいいのか彼にはまるでわからなかったのだろう。動物園のなかで蒲焼くんを食べるのが禁止されているわけでもないし、動物に蒲焼くんをあげているわけでもない。包装紙だけが彼女の右側にたまっているけれど、持ち帰れば問題ない。

もぐもぐ。

もぐもぐ。

僕と僕の友人はゴリラと張りあうのをやめて、蒲焼くんを食べる彼女を見つめた。

彼女は素敵な白いワンピースに身を包み、その白さに負けないくらい綺麗な肌をしていた。髪はさらっとしたストレートのロングで、紅色のハイヒールを履いている。頭のてっぺんから足のさきまで、素晴らしく金がかかっている。すくなくとも休日の動物園で、たったひとりで蒲焼くんを食べつづけているタイプではない。

 

「さっきから何をしているんですか」僕の友人が彼女に声をかけた。彼は諦めの悪いガール・ハンターとして京都の岡崎では名を知られた人物である。

彼女は馬鹿にしたような視線を僕らに向けた。「何してるって(もぐもぐ)、蒲焼くんを(もぐもぐ)、食べているのよ」。見たらわかるでしょと言わんばかりだった。

「たのしいですか」

「そんなの(もぐもぐ)、私の問題でしょ」

「でも、世の中にはもっとたのしいことがありますよ」

「たとえば」もぐもぐ。

「たとえば、オオサンショウオの蒲焼を食べるとか」

「ふうん」と彼女は言った。「で、どこにオオサンショウオがいるの」

「それが問題だ」と僕の友人は言った。「鴨川の一角に、とてもいいオオサンショウオの巣があるんだ。行ってみない」

「動きたくないのよ」彼女はワンピースの裾をあげて、足もとのヒールを強調する。

「残念だなぁ。すぐそこの穴場なんだけど」

「ほんとう?」

「もちろん。黒い川底はぜんぶオオサンショウオさ」

「でもそれをどうやって蒲焼にするの」

「バーベキューのコンロで一発さ。ジュージュー焼いて、タレをつければいいんだ」

「食べてもいいの」

「生きてるものは食べるためにあるんだからね、当然さ。オオサンショウオも、食べてもらって喜ぶだろうよ」

 

彼女と僕の友人は、オオサンショウオの蒲焼を求めて鴨川のほうへ歩いていった。あとには警備員と僕だけが残された。

「いろんな口説き方があるんですねぇ」警備員は感心したように言った。「オオサンショウオの蒲焼だって。獲っちゃいけないのは知ってるだろうに」

「まあね」僕は言った。

彼女がいた場所には、トランプを組み上げて作った城みたいに、蒲焼くんの包装紙が積み上げられていた。ぼくはそれをごそっと掴みあげると、警備員に「ゴミ箱は」と訊いた。

警備員は向こうを指指しながら「オオサンショウオねぇ」とため息をついた。

 

註:村上春樹さんの「マッチ」『夢で会いましょう』をもとにしています。