『裸足の季節』
『裸足の季節』
http://www.bitters.co.jp/hadashi/theater.html
『シン・ゴジラ』と『君の名は。』を見て、映画館で見るのと、家で借りて見るのではまったく違うなと実感した。
このふたつを機内で見た人は、損をしたといっていいだろう。最初だけは映画館で見てほしい作品だった。
さて、『裸足の季節』。500円で見られる機会があったので、スクリーンで見てきた。
女の子たちがかわいくて、透明感があったので、「ダメでも、まあいいか」という気軽な気もちで。
【流れ】
トルコの女性差別を題材に、その因習に疑問をもった5人姉妹を描く。視点は末っ子ラーレ。
5人は、自然な感情として、男の子と遊びたいし恋もしたい。自由に生きたい。
しかし、思春期のある時期に、突然それが抑圧される。その抑圧に対してどうするのか。
因習は三つの軸で強調される。ひとつは、一緒に住む叔父に代表される「男性による女性差別」。もうひとつは、育ての祖母に代表される「女性による女性差別」。最後は、田舎という「密接な地域関係」
ラーレに迫ってくる具体的な危機として、一番上の2人が強制的に結婚させられる。3人目は苦に思って自殺する。
危機から抜け出す方法として、ラーレには車の運転技術が与えられる。しかし、それは不完全。なぜなら、まだ一人では生きていけない歳だから。
抜け出す先として、イスタンブールに行ってしまった学校の教師。
結局ラーレは、結婚させられそうになった4人目の姉を伴って、イスタンブールの教師のもとへ。
ちゃんちゃん。
【感想】
悪くない。けれど、よくもない。
これで解決なのか。ラーレの動機は「自由になりたい」だけである。子供はそれでいい。しかし脚本で、因習のアンチテーゼとするには弱くないだろうか。
脚本がそのわがままをわがままのまま描くのには疑問である。姉の結婚式(=大人に変わる儀式)をぶちこわして、自分のわがままに付き合わせる。もちろん姉にも「自由になりたい」意識はあったから、独善とは言い切れない。ここで問題になるのは、「自由になりたい」の意味の差である。
ラーレの「自由になりたい」は、「大人になりたくない」に過ぎないのである。いままでののどかな日々が続くことを、わがままに希望しているだけなのだ。
そう考えたとき、「因習VS自由」というフェミニズムの文脈から外れて、「大人VS子供」という文脈の要素が強くなる。もちろん「因習=大人VS自由=子供」という対立をうまく作れば、これも可能であろう。しかしラーレは、わがまま娘として描かれる。失敗ではないだろうか。
単純なストーリーであるにもかかわらず、疑問が残る。なぜトラックの男性は、無償で助けてくれるのか。なぜ祖母の仲間たちは、少しも理解を示さないのか。
構造的暴力は昔も今もあったからこそ、青春期の女性たちはみな同じ道を歩んできたはずである。ラーレたちだけが特別なのではない。流れの一地点として、ラーレを位置づければ、もっとうまく表現できたのではないかと思う。
あまりよいとは思えなかった。
ただ、女の子たちはとてもかわいい。とくに脚がいい。体を密着させて笑いあってる姿は微笑ましい。くねらせながらベットから滑り落ちる姿は最高。絵はよかった。