福永武彦『愛の試み』
池袋西口から立教大学にいたる道には、文庫本専門の書店がある。大地屋書店と言う。
個人でやっているから、「こういう本はありますか」と訊くと、すぐ答えが返ってくる。何回か通えば、馴染みとして顔を覚えてもらえるのだろう。そういう店が大学の近くにあるなんて、幸運である。ぼくの大学にはない。
そこで本書を買った。福永さんの『愛の試み』は、孤独と愛にかかわるエッセー集である。最後のエッセーから、長めに引用したい。
「夜われ床にありて我心の愛する者をたづねしが尋ねたれども得ず。」
僕は「雅歌」のこの言葉を好む。これは人間の持つ根源的な孤独の状態を、簡潔に表現している。この孤独はしかし、単なる消極的な、非活動的な、内に鎖された孤独ではない。「我心の愛する者をたづねしが」――そこに自己の孤独を豊かにするための試み、愛の試みがある。その試みが「尋ねたれども得ず」という結果に終ったとしても、試みたという事実、愛の中に自己を投企したという事実は、必ずや孤独を靭くするだろう。……愛が失敗に終っても、失われた愛を嘆く前に、まず孤独を充実させて、傷は傷として自己の力で癒そうとする、そうした力強い意志に貫かれてこそ、人間が運命を切り抜けていくことも可能なのだ。従って愛を試みるということは、運命によって彼の孤独が試みられていることに対する、人間の反抗に他ならないだろう (155-156頁)。
人は、意識しているかしていないかにかかわらず、孤独である。ただし孤独というのは、無価値な状態を指した言葉にすぎない。
その孤独な人間が、自己と世界をどう認識し、そのうえでどう行動するかによって、価値が付与される。
本書では、消極的な孤独と積極的な孤独が対置される。消極的な孤独とは、内に閉ざして、ただ自分のなかに沈み込んでいく孤独である。積極的な孤独とは、外に開いて、それだけで充足している孤独である。
充足した孤独。
そこでは、愛が試みられる。他者とつながろうとする。他者とはすなわち、異性である。異性は社会への窓口である。
孤独と愛にかかわるエッセーを読むことは、充足した孤独を試みることにほかならない。
9篇の掌編も挟まれていて(これが実におもしろい)、たった400円である。買いだ。