坂口安吾『堕落論』と、なにか。
無意味なことをして生きたい、という気もちが抑えきれなくなってきた。
講義に出るよりも、図書館に閉じこもって本を読んでいたい。就職のため勉強するよりも、京都の街中で思索にふけっていたい。誰かと会うよりも、下宿に閉じこもって自分と対話し続けたい。
ぼくの大学院では、講義に出ることが就職につながってしまう。哀しいかな、ここを選んだ宿命である。
そんなことをするよりも、宗教学や哲学、芸術の講義にもぐっていたい。
今日は講義が始まる日だった。
演習形式の授業が多く、軽い自己紹介もした。不安はありながら、みんな何かしら目標を口にする。その流れをさえぎって「将来の夢は高等遊民」などと言える雰囲気ではない。
「○○ですかね」。過去の自分から無難に導き出される「目標」を口に出してしまった。
しょっぱなから休講になった時間をもてあまし、坂口安吾『堕落論』(角川書店)をパラパラとめくっていた。角川クラシックスに入っていて、12篇のエッセイが収められている。
「堕落論」「恋愛論」を読んだ。それぞれ最後の部分を引用する。
「戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄のごとくではあり得ない。人間は可憐であり脆弱であり、それゆえ愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる……人は堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ……堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わねばならない」
「人生において、最も人を慰めるものは何か。苦しみ、悲しみ、せつなさ……苦しみ、悲しみ、せつなさによって、いささか、みたされる時はあるだろう。それにすら、みたされぬ魂があるというのか。ああ、孤独。それをいいたもうなかれ。孤独は、人のふるさとだ。恋愛は、人間の花であります。いかに退屈であろうとも、このほかに花はない」
ああ、と思った。
人間は堕ちるのである。とことん堕ちるのである。しかし人間の弱さゆえに、堕ち続けることはほとんど不可能である。
堕ちるべき道を堕ちきったとき、そこで目にするのは、いままで気づかなかった自分の姿なのだ。堕ちた先で自分自身と対峙し、しっかりと見定め、腹をくくって受け入れる。これが人間だ。
堕ちきるには、時間が必要だ。
いまの世の中は忙しすぎる。ぼくの大学院も忙しすぎる。
途中でなんとなく回復した気になって、そのまま生きることもできる。だがそれは、自分との対話を欠いた人生になってしまう。それは嫌だ。
堕ちきるには、孤独が必要だ。
他人と一緒に堕ちるなどありえない。自分ひとりで、自分のなかに堕ちていくのだ。
苦しみ、悲しみ、せつなさ。一方で恋愛という(いっときの)他者とのかかわりを切望しながら、他方で自分自身のなかに堕ちていく一助になる。
堕ちきりたい。とことんまで堕落したい。
しかしゆるされない。
これが人生なのだろう。