白くま生態観察記

上洛した白いくまもん。生態日記。

『ハリー・ポッターと死の秘宝』

ぼくは軽めのポッタリアンである。
本は10周以上しているし、映画も3回は通しで見ている。映画で省略された箇所も、頭のなかで映像化されているから、地上波放送ではしょられた箇所がわからない。
そのくらいのポッタリアンだ。

ただ、何回読んでも、原作第7巻で、腑に落ちない箇所があった。

ひとつめは、スネイプ先生の最後の言葉look at meの解釈。
自分の記憶をハリーに託すので、「記憶のなかの、ほんとうの自分を見てくれ」という意味だと思っていた。しかし、どことなく場面にあわないなぁと思っていた。
ふたつめは、ハリーがヴォルデモートの死の呪文を くらってなお、生き残る場面。仮にも死の呪文を受けておきながら、「ハリーのなかのヴォルデモートの一部」だけに効果が及ぶのは都合がよすぎないか、と思っていた。

今日、映画をみて、これらの疑問が解消された。簡単なことだった。過去のメーキング映像を見るかぎり、映画化するさいにはローリングさんとの検討を経ている。本作の映画版では、解釈が固定化されるように表現されていた。
いままで、この描写に気づかなかった。ポッタリアンとしてなんという失態。

ひとつめ。「私を見て」というのは、ハリーに向けた言葉ではなかった。リリーに向かって発した言葉だったのである。
目の前のリリーに「ぼくのことを見つめてくれ」と言ったのだ。正しくは、リリーの目をしたハリーではあるけれど、そんなことは関係ない。死ぬ直前、息も絶え絶えのスネイプにとって、ただ目だけが重要だった。世界のすべてだった。スネイプは最後の瞬間に、リリーとふたりだけの世界にいたのだ。
「きみの息子を守ってきたよ。最後までは見届けられないけれど、できるかぎりのことはした。許してくれるかい。許してくれなくてもいい。いまだけはぼくのことを見ていてくれ」

ふたつめはとても単純だった。
杖の忠誠の話だ。ニワトコの杖は、ハリーに忠誠を誓っている。ハリーは杖をもたずにヴォルデモートのもとに行くから、杖同士での相殺ビームは発生しない。その状態で死の呪文を受けると、呪文はハリーに当たるものの、正規の効果はハリーに及ばない。「たまたま」いちばん近いヴォルデモートの一部に当たる。という寸法だ。
(ニワトコの杖をもった)ヴォルデモートが死の呪文をハリーに使うこと。そのときハリーは、蘇りの石に触れて死を受けいれ、無防備にヴォルデモートのもとへ行くこと。これらが必要だった。きわめて論理的に準備されていた。さすがローリングさん。


ふたつめの話は、原作を読んだときには了解できていた気がする。忘れていただけの可能性が強い。問題なのはひとつめの話だ。より根深い問題が露呈する。
言葉に込められた意味は、その他の手段で限定されないと、正しい解釈にいたらない。
正しい解釈などないといえばそれまでだが、作者の意図は上のようであった。この意図は、映画で補足説明されなくても、恋愛をしたことがあるひとならすぐに気がつくだろう。原作を読んだ時点でも、想像力と経験の差によって、読みの正確性が変わってくるのだ。
しかも4回以上は映画を見ている。いままで、これだけはっきりと描写されていた極限のシーンについて、誤解を正せなかったのだ。
なんということだろう。

さいきん、いろんな経験をするようにしているのは、こういう間違いをできるだけなくすためである。ぼくは何も知らない。