白くま生態観察記

上洛した白いくまもん。生態日記。

孤独について。『化物語』と『エヴァ』

孤独と愛について、ある人と少し話した。そのなかで、明示的ではなかったけれど、重大な論点が隠されていたように思った。

瞬発力とコミュニーケーション力が無残なことになっているので、ぼくは話している最中に違和感に形を与えることができない。残った違和感は解消されずに、頭のなかで重要なフレーズとともに反芻される。数日たったころ、「あ、そういうことか」という瞬間が訪れる。

 

重大な論点は、以下の点である。

「孤独だから、人間は頼りあうのか」。それとも「孤独でないから、人間は頼りあうのか」。

 

少し違うところから攻めてみたい。

上の命題で、ぼくは「助けあう」という言葉を使わなかった。西尾維新さんの物語シリーズで、忍野メメというおっさんがいる。彼は「人が人を助けることはできない。人はひとりで勝手に助かるだけさ」というキメ台詞をもっている。この人間理解は、ぼくのものと近いと思う。福永武雄とも近いと思う。

「助かる」という状況はその人固有の内面的なものであって、他人が土足で踏み込んで「助けてあげた」ということはありえない。何かを抱えている人相手にできるのは、「助かる」という状況を、外からの働きかけで準備してあげることだけなのだ。その準備は(たぶんに)決定的なものではあるけれど、相手の内的な変化につながらなければ意味がない。

内的な変化は、その人自身のものであるから、そこには踏み込まない。きわめて現実的で、できることとできないこと、すべきこととすべきでないこと、を認識した世界観である。

 

これを冷たいと捉えることも可能だ。

シリーズのなかで阿良々木君は、「助けてあげたい」という正義感・使命感をもって、さまざまな登場人物の人生にかかわっていく。そして実際に助けていく。八九寺真宵に「あなたのことが嫌いです。かかわらないでください」と拒絶されても、「あんなに困っているのに、助けようと話しかけてきた相手を拒絶しなければいけない状況は、放ってはおけない」という。共感能力が高いのである。

 

さて忍野メメ阿良々木暦の違いは、大きいものだろうか。

それほど違いはないのではないかと思う。自分と他人をへだてるものを、諦観とともに受け入れるか。へだたっているけれど、それでも! と乗り越えようとするか。こう表現すると、意外と大きいかもしれない。

でも、物語シリーズを読んだかたはわかるだろう。忍野は隔絶を基本に置くけれど、実際は助けているのだ。相手の人生に、根本からかかわっていく。それは、「助かる」という状態が、相手個人の問題だという認識が揺らがないことが示している。相手個人の問題だからといって、その変化を準備するためには、相手にかかわっていかざるをえない。

ふたりの違いは、最初のアプローチだけである。忍野は「相手から頼られた」場合にのみ、かかわっていく。阿良々木君は「自分から積極的に」かかわっていく。

忍野は、「変わりたい・助かりたい」と相手が思ってはじめて、手を貸す。相手の意思がすべてだと理解しているからだ。阿良々木君は「変わりたいと思っているはずだ」と認識した時点で、無理やりに手を貸す。変わりたいということを覚悟をもって行動に移すのは、いままでの自分を概念的に殺すに等しく、そうそう簡単にできないことを認識しているからだ。

 

冒頭の問いに戻ろう。

忍野メメ風の世界観ならば、「人間は孤独である。孤独だからこそ、頼りあう」ということになる。

阿良々木風の世界観ならば、「人間は孤独であるかもしれないが、同時につながっている。つながっているからこそ、頼りあえる」ということになる。

 

ここまで書いてきて、「孤独」をどう定義するのか、何も言っていないではないかといわれるかもしれない。

ぼくのなかで、孤独はわりと単純な事実認識である。

漫画版の『エヴァンゲリオン』が視覚的に描き出している。個人のATフィールドがあるのは、孤独な状態である。そして、個人のATフィールドが溶けだした無限抱擁の状態は、自他同一の世界として、孤独ではない。

無限抱擁の状態は、恋人同士であれば、一瞬だけ達成しうるかもしれない。しかし福永武雄は、それすらも拒絶する。ふたりがひとつになった瞬間にこそ、逆説的に、もっとも強く孤独を感じるのだ。

 

無限抱擁の達成は、精神が自他を認識し始めた瞬間から、ありえない。

ことほどさように、人間は孤独なのだ。