よい、わるい、わからない
ある作品に触れたとき、大きく分けて三種類の感想をもつ。
ひとつめは、よい。
その作品が一定水準に達しているなぁと感じたら、すなおによいと評価している。その作品のキモが、表現手段やストーリーにのってあらわされている作品はよいものだ。
よい、のなかにも種類がある。いちばん上は「ゾクゾクした」。そのつぎは「オススメ」。そのつぎは「よい」である。一級の作品は、理性による分析を超えたところに価値があると思っている。なのでゾクゾクしたという感覚であらわす。いちおう分析を試みるけれど失敗する。そのわからないところに敬意を表して、ゾクゾクしたというのだ。
よい作品にも、たいていはキズがあるものである。そこにも触れるようにしている。価値があるから、もっとこうしたほうがよかったかも、という感想が生まれる。
ふたつめは、わるい。
その作品が一定水準に達していなければ、わるいと評価する。
わるいと評した作品は、自分のなかにしまって表には出さない。わるい作品には沈黙している。
ただし沈黙していることで、周りの人に悪影響が及ぶときには、わるいという。わるいものはわるいのだ。
みっつめは、わからない。
ぼくのなかに評価基準がある。その基準が適用できなかったり、もしくは誤った適用をしそうだったり、そもそも作品が理解できなかったりした場合には、わからないと評価する。
いまはわからなくても、将来、わかるようになるかもしれない。そうしたときに改めて評価すればよい。
現時点でわるいと評価してしまったら、将来また触れる機会がなくなってしまう。いまは保留しておくほうがただしい。
むかしは日本文学を読んでも、わからない、という感想が大半だった。わからないものを読むのは、往々にして苦痛である。これが日本文学(とくに私小説・純文学)を避けてきた理由だ。
そんなぼくでも、最近それなりに人生経験を積んできたのか、一定程度わかるようになってきた気がする。そろそろ読んでみる時期がきたのかもしれない。いま読んで、また十年後くらいに読むと、読みが違うのだろうと思う。
いまの自分にしかできない読みがあるのかと思うと、いまの自分を保存しておくために、積極的に読んで感想を文章化しておきたい。