白くま生態観察記

上洛した白いくまもん。生態日記。冬眠するので春になったら起こして

三木清『人生論ノート』と井上雄彦『リアル』

おもしろい問いを投げかけられた。問うてくれた人に感謝したい。

 

「愛とは創造であり、創造とは対象に於て自己を見出すことである」(三木清『人生論ノート』)とは、どういうことか。

 

まず私がこの本を理解できていなかったことを告白しなければいけない。2か月ほど前に読んだとき、諸事情があって、救いを求めて読んでいた。自分本位な読みになってしまっていた。今回、質問があったので本文に忠実に読んでみると、まったく違う世界が立ち上がった。あきらかなミスである。たぶんそのころの本は、同じような姿勢で読んでいる。読書したときの自分が、その感想を書くことによって保存されている。

若干言い訳がましくなった。しかし最後まで読めば、なぜこの言い訳を最初にもってきたのかわかるはずだ。

 

「愛とは創造であり、創造とは対象に於て自己を見出すことである」

 

この言葉は、「個性について」というエッセーのなかにある。

三木は、「一切の活動がただ私に於て起ることを知っている」といい、個性について考えを進める。いたんは、この「私」がそのまま「個性」であり「自分自身」であると等置してよい。このとき、個性の唯一性とは、他との比較によって規定されるのではない。むしろ「個性とは却って無限な存在である」。しかし無限、すなわちありとあらゆるものを包含する概念と、個性の唯一性は一見矛盾する。どこに唯一性がみられるのか。

三木は以下のように論を進める。「個性の唯一性は……自足的な内面的発展を遂げるところに成立するのであって、個性は自己活動的なものである故に自己区別的なものとして自己の唯一性を主張しうるのである」

いかにも理解しがたい。ここではふたつのことが言われている。ひとつは、個性の唯一性には、自己の内面的発展が必要であるということ。もうひとつは、個性は活動的なものであるがゆえに無限のなかで自然と区別されるということ。ふたつめから紐解いていきたい。

 

個性は活動的なものであるがゆえに唯一性を主張するとはどういうことなのか。たとえば、土をこねて陶器を作るときを想像してほしい。いずれ記事にするけれど、井上雄彦『リアル』第6巻に象徴的な場面がある。

高橋久信は、高校バスケ部のキャプテンをやっていて、イケメンで女にも困らない順風満帆の生活を送っていた。しかしある日突然、交通事故で下半身不随になってしまう。プライドが高く、以前の自分といまの自分の差を受け入れられない高橋は、リハビリにも精が出ない。ある日、担当医の勧めで元父親の家に行く。そこで土をねって陶器を作ることになる。

しかし高橋は、元父親の作ったきれいなお椀と、自分の作ったでこぼこのお椀を見比べ「センスがない」と、ぐちゃぐちゃにしてしまう。こんなんじゃ意味がないと言う。

父親はそれを見て、自分が作ったきれいなお椀のぐにゃりと歪める。「おちょこや花瓶になるかもな」とごちながら。高橋は、あんなにきれいなお椀を崩すなんて正気か? と理解ができない。元父親は言う。

 

正解があるわけじゃない

何かに似せる必要もない

形を整えることが先にあるんじゃなくて……自分の思いをまず聞いてあげること

本当にちゃんと聞こえるまで耳をすますこと

 

君自身の声を聞こえないふりをしていると……

そのうち本当に聞こえなくなってしまう

君の思いをそのまま表したらいい

 

記事の本題からは外れるが、つづきの場面もあわせて抜き出す。

 

こういわれて、高橋は「俺自身の声」について考えだす。するといままで順風満帆に見えた人生だったけれど、ほんとうにバスケを楽しんでいたのかという疑問が生まれる。いや楽しんでいなかった。ならなぜ続けていたのか。

それは、小さいころ、父親とバスケをしていたとき、とても楽しかった記憶が忘れられなかったからだ。いままで楽しくなかったのは、父親が目の前から逃げたからだ。俺のことを見てくれて褒めてくれる父親が、いなくなって……高橋の原体験へと行きつく。高橋は、いままで押し込めていた自分の感情を解放する。なんでいなくなたんだよ! いまさらおせえよ! 高橋は、他者との関係で自分を知る。

 

コーヒーこぼしても‼

ガラスでつきさしても何も‼

この脚は何も感じないんだ‼

 

もう何も……出来なくなった

 

自分のこころに耳を傾け、自分を受容し始めた高橋が今後どう生きるのか。井上さんの『リアル』には、3人の主人公の人生が描かれる。おすすめだ(どこかで記事にする)。

 

さて本題に戻ろう。このエピソードで重要なのは、土をこねて陶器を作るとき、その形状には「自分自身」が現れてしまうということだ。そこでは、上手い下手は関係ない。創造物は、自分自身が映し出される鏡として機能する。わかるひとにはわかる。技術だけで作ったとき、他のものに似せて作ったとき、そこでは自分は隠されている。三木は、純粋な創造行為に没頭したとき、できあがったものには個性が表現されているという。それを見出すには、内面的な発展が欠かせない。

「創造とは対象に於て自己を見出すことである」。これを説明した。

 

 

前段の「愛とは創造であり」については、文脈を知る必要がある。しかしそれほど難解ではないように思われる。じつは三木は、命題に続いて、「愛する者は自己において自己を否定して対象において自己を生かすのである」と続けている。愛とは、対象を必要とするものである。愛とは、自己と対象とのあいだで何らかの関係性を結び創造していく活動的行為である。そのくらいの一般的理解でいいだろう。

しかしなぜ個性と愛が結びつくのか。

「個性を理解しようと欲するものは無限のこころを知らねばならぬ。無限のこころを知ろうと思う者は愛のこころを知らねばならない」。どうしてもここに神の愛とのパラレルな関係を見出さざるを得ない。そのくらいの理解でよさそうである。「神の創造は神の愛であり、神は創造によって自己自身を見出したのである」。この言葉が証明している。

 

結論

「愛とは創造であり、創造とは対象に於て自己を見出すことである」とはどういう意味なのか。

愛とは、他者とのあいだで(もしくは他者の中に)何かを成し遂げる創造的行為である。そうした創造行為を通じてできあがったものには、いやおうなしに自己が反映される。内面的に発展していればそこに個性としての自己を見出すことが可能であり、純粋な愛であれば純粋な個性を見出しうるであろう。