白くま生態観察記

上洛した白いくまもん。観察日記。勝手にコルクラボ

自分の頭で考える――京大の試験

自分の頭で考えるとは、自分勝手に考えることではない。ある視点から、あるツールに則って、考えることである。

 

京大での前期試験をだいたい終えた。

学部時代を過ごした慶應と、大きく異なる点があった。解答用紙の量である。京大の方が圧倒的に多い。慶應はB4の用紙に両面に細い罫線が引かれている。紙はペラペラで薄い。書いていると、机の固さが手に伝わってきて疲れる。

京大のはA4の用紙に計8ページ分罫線が用意されている。画用紙まではいかないけれど厚みのある紙が使われ、机の固さと遮断されるから長時間書いても疲れない(慶應ほどには)。さらに表紙までそろっている。まさしく解答「冊子」なのである。試験が終わって冊子を作り上げると、「書いたなぁ」と重みが実感される。

 

ざっと見るところ解答に費やせる文字量が雲泥の差である。慶應は多くて2千字ほどだが、京大は5千字ほど書ける。試験時間は慶應だと50分が基本で、京大だと80分が基本となっている。京大では、解答冊子に「ボールペンで書け」との指示がある。徹底的に「書け」と言っている。

 

「A4用紙8ページを、問題解きながら80分で手書きせよ」という要求は、普通の人間の限界を超えている。つまり要求されていない。この解答冊子が言っているのは、「どれだけ書いても解答用紙がなくなることはありえないから、論旨に必要な分を自分で把握して好きなだけ書いてね」という優しい親心である。またの名を、自由放任主義という。

 

「自分で必要だと思う量を決めて書いてね」

これは怖い。試験問題を解くだけではなくて、「必要十分な量で解答せよ」という制限にも答えなくてはいけない。

 

物量に制限がないとき、困るのは「簡潔に答えよ」という設問である。

解答欄が制限されていれば、「この量なら、このくらいしか書けないから、このくらいまで書こう」という決心がつく。つまり外側から簡潔性が決まる。

いっぽうで解答欄が無限にあるとき、外側の簡潔性には頼れない。重要度が高いものから書いていって、途切れたところで終えるという戦略がとれない。徹頭徹尾、自分の頭で簡潔性を判断しなくてはいけない。

 

冒頭に戻る。

自分の頭で考えることは、視点を設定し、ツールを設定して、対象を分析することである。これは自分を縛っていくことに他ならない。

素人と専門家の違いは、ここにあると思っている。ある問題について迫るとき、自分を中心に迫っていくのか、対象を中心に迫っていくのか。すなわち、外在的に分析するのか、内在的に分析するのか。

自分を中心に、自分勝手に分析するのは簡単である。テレビのワイドショー的に言い放題すればいい。あーだこーだ好き勝手に表明し、それの総体として何か言った気になる。いっぽうで、対象を中心に、内在的に分析するのは難しい。どのような視点で、どのようなツールで分析するか。この設定で結論が変わってくる。その分析の過程が正しさを担保する重要な要素となる。その正しさは、わかる人にはわかる。

対象を分析するのに適切な視点とツールを設定して、自分の思考を縛ること。これが自分の頭で考えることである。

 

ぼくは「これこそが自由だ」と考えるけれど、「自由じゃないじゃないか。自分はどこにいるのだ」と思う人もいるかもしれない。

考えてもほしい。自分を制限するものがない状態で考えることは自由なのだろうか。

そもそも人間は、さまざまなものの影響を受けている。当然考えかたにも影響している。その人間が自分の頭で考えたとしたら、その思考は、影響を受けたさまざまなものがあらわれてしまう。怖いことに、これは無意識のうちの作用である。言い換えれば、無意識のうちに、さまざまなものの制限を受けた思考をしている。これのどこが自由なのか。実際に制限されているのに、その制限を制限と感じないままに「自分の頭で考えた」などと言うのである。

そう考えると、あえて制限を受ける方法論を自分の頭で選びとることは、自由なのである。通常時に無意識に働いてしまう思考から自分の選択で抜け出ることは、制限を制限として認識することから始まる。無意識の制限から離れて、意識的な制限のもとに身を置く。自由だ。

 

「簡潔に」という要求は、「対象を内在的にみたとき、その骨格だけをピンポイントに」という要求である。試験であれば、これは単純な要求である。講義であつかった視点とツールを使って対象を見たときに、外せない骨格を抜き脱せということだからだ。そこに自由はなくて、従うべき思考枠組みは用意されている。

だからこそ怖いのだ。講義で示された思考枠組みを正しく内面化できているかは、「簡潔に」という設問で一気に表面化する。見る人が見れば、一瞬で判明する。講義をしている本人からすれば、わからないわけがない。

 

試験中、このくらいでいいのか。短すぎやしないか。もしくは、こんなに書いていいのか。長すぎやしないか。という問いがつきまとう。

しかし要求されているのは、「必要十分に書け。物量は気にするな」というきわめて正統なことである。単純に骨格を抜き出せばいい。そのためには、思考枠組みを内面化することを意識すればいい。

思考枠組みが内面化できたかどうかは、記述式で判断するのが手っ取り早い。だから記述式で問題を作る。すがすがしいくらいに論理的だ。何が問われているかがわかるから、安心して問題を解ける。こういうふうに問題を解いていることは、書けば伝わる。「あなたのしたいことを理解しましたよ。どうぞ採点してください」。ニコニコしながら問題を解いている。こういうのは楽しい。

 

京大で試験を受けて、これが大学なんだよなぁと思った。