白くま生態観察記

上洛した白いくまもん。観察日記。勝手にコルクラボ

竹内友『ボールルームへようこそ』

竹内友ボールルームへようこそ』(講談社

 

どうやって魅力を説明すればいいのか、ずっと考えていた。もちろん少年漫画的な面白さは満点である。道を極める厳しさを対比して、主人公の未熟さとひたむきさを強調する特徴もある。絵の艶もあって、かなりおもしろい。

しかしそれだけでは、第5-9巻の魅力を説明できない。物語が一見進展していないように見えるこの部分を、どのように解釈するか。なぜぼくは、この部分に魅力を感じているのか。

 

カップルへの憧れだった。

第5巻で、主人公の多々良君はちーちゃんという女性と出会って、ダンスのパートナーに誘う。そのカップル関係を深めていくのが第9巻までである。ちーちゃんは男勝りな性格で、他人を受け入れることはしてこなかった。自分は他人より上だという壁を作って生きてきた。一方の多々良君は真逆である。他人の意向ばかりをうかがって、自分がなかった。

 

お気づきだろうか。この両者は、お互いにとって心理学的なシャドーを形づくっている。自分が見ないようにしてきた自分、否定したい自分、わかってはいるけれど直面したくない自分。ちーちゃんからすれば、ダンスをやるには女性の側がフォローをしなければならないこともわかっている。昔からそこが欠点だった。しかし性格的に直せない。どうしてもリードをしたくなってしまう。多々良君からすれば、仙石さんのように立派なリードをできるようになりたい。しかし自分を表現したことのない臆病である。これまでの人生ではリードの適性がなかった。身近なリード主体のカップルを見て嫌悪感があるけれど、自分なりのリードをしなければならないのもわかっている。しかしできない。

両者にとって直面したくない自分と直面しているのが、ちーちゃん&多々良君のカップルなのだ。

だからこそ、ふたりのダンスはちぐはぐになってしまう。お互いのことを理解したくないのだから当然だ。無意識に身体が相手を拒否する。「あんたがわからない」。

この状態でも外形的には踊ることはできる。しっかりとした姿勢でスタンダードを踊る。つじつま合わせはできる。しかしその状態は、カップルの一体感とは対極の状態だ。わかる人にはわかってしまうのだ。こいつらはダンスをしていないと。

もちろん違和感を抱きながら踊っているちーちゃんと多々良君が、いちばんよくわかっている。理想と現実の乖離。成長していない自分たち。成長を求められる外的環境。ストレスが増していく。

ふたりの目標は一致していた。よいダンスを踊りたい。このチャンスを逃すと、もう踊ってくれる相手はいないかもしれない。ここでうまく踊れないと、ライバルと同じ舞台に立てない。

「「それは嫌だ。今しかない」」

ふたりは正面からぶつかりあう。喧嘩しあえる仲になる。いままで相手を見てこなかったことを認識して、お互いを理解しようとする。相手を受け入れようとする。シャドーである相手を受け入れることは、大きな痛みをともなう。抑圧してきたけれど、立ち向かわなければならない自分の弱さと向き合う。その弱さを受け入れないと、ほんとうのカップルにはなれない。

どんなに絶望的な状況でも、ふたりは逃げない。「結局は他人。わかりあえない」などという弱音は吐かない。「他人だ。だからこそ向き合っていかないといけない」。それには、それぞれ自分をさらけださないといけない。思春期の少年少女にとって、自分をさらけだすことはどれだけつらいことだろうか。自意識の檻を開けて、相手を招きいれないといけない。

そして第9巻の最後では、異質な他者を受け入れて一体となった感覚を描いて終わる。「ふたりでひとつ」という一体感の領域に入る。たぶん10巻では、この一体感とともに優勝ないし準優勝するのだろう。

 

カップル競技としてのダンスを描ききった瞬間だと思った。まこちゃんとのカップルでは、多々良君は自分の弱さと向き合わなくてよかった。多々良君の特徴を活かせばよかった。しかしちーちゃんとでは、自分の弱さと向き合う必要があった。

ここですごいのは、ちーちゃんの弱さも大きな要素として描ききっていることである。主人公とそのパートナーは、カップルを組むことで、両者が一段成長しダンスもよくなった。人格の成長とダンスの上達を結びつけたことこそ、『ボールルームへようこそ』のすばらしい点であろう。カップル競技を描くことで逃げたいけれど逃げられない状況を生み出し、その葛藤をじっくりと描いていった。両者それぞれの葛藤を克服することは、単純な足し算ではなく、掛け算としてダンス的な成長にあらわれるのだ。うつくしい。

思えば、主人公とパートナーの弱点をそれぞれ設定し、同じくらいの分量で描き、その克服を相乗効果として結果に反映させる物語を思いつかない。難しいからだろう。

カップルとしての一体感の難しさ奥深さ。ダンス競技を描く意味がここにあったといえる。だからこそ、ぼくは魅力に感じたのだ。

 

ここまで他者と向き合うことは、いままでの人生であっただろうか。恋人どうしでさえも、自分の奥底までさらけだしあって、一体感のその先までいったことはあるだろうか。

ちーちゃんと多々良君が真摯に自分と相手と向き合う姿を見ながら、はたしてぼくは誰かと関係できているのか、見せかけじゃないのかと自問する。

さらけだせないよなぁ。