人間は障害物
小雨が降るなか、自転車で走る。
目的地まで1時間くらいかかる。雨も降ってるし、早めにつきたい。
帽子をかぶって目に雨が入るのを防ぐ。レインウェアの上下を着る。荷物をビニールで覆う。
よーく見なければ、僕とはわからないだろう。帽子に隠れた顔で判別するしかない。ちょっとした変装だなとにやつく。
自転車をこぐとき、道ゆく人たちは障害物に見える。ぶつかったら負け、突然左右に揺れることあり。要注意。十分にあいだをとって、最短距離で追い抜いたりすれちがったりしなければならない。これはゲームだ。
障害物を避けるのはめんどうなので、たいていは道路の左端を走る。回避義務は後ろの自動車に移る。ぼくが障害物になるけれど、軽車両は本来左端を走るものだ。あきらめてねー、と心のなかで念じつつペダルを踏み込む。
バスが停まっている。危険だから歩道に乗り上げる。
めんどうだな。人が降りてくるからスピードを落とさなくてはいけない。障害物がたくさん吐き出されてくる。
バスから降りてくる障害物を抜けてしばらくすると、目の前の障害物からとつぜん声がかかった。
「おうっ!」
なんだこいつと思った。すれ違いざまに顔を見る。
(なんか見たことある顔だ)。一気にブレーキをかける。とまって振り返る。
「お、Mじゃん」と声を返す。「よくわかったな」
「そりゃわかるわ。ここで何してんの」
「庭見にいく。雨降ると石の発色がいいんだよね」
「なーる。んじゃ」
「うす」
会話をしながら、すげぇなと感心していた。
いつもと違う服装で、顔を帽子で覆っていて、自転車に乗っている人間の顔を認識する。しかも、その人間と知り合って数ヵ月しかたってない。わかるほうがおかしい。ぼくなら絶対に無理だ。
道を歩いていたとして、向こうからくる自転車は自転車でしかない。誰が乗っているかは関係ない。自転車という物体が動いてくるだけだ。逆に自転車に乗っていれば、人間は障害物にしか見えない。その人間が誰かなんて問題じゃないから、わざわざ顔を確認しない。
まてよ、と思う。
こういうことはたくさんある。晴れの日でも、自転車に乗ってるぼくに気づくのは、相手側だ。ぼくが歩いているとき、気づいてくれるのは自転車側だ。ふたりとも歩いてるとき、気づくのは向こう側だ。人が多くなると、ぼくは背景や障害物として認識しているのだ。相手側は、人を人として認識している。
「おっ、何してんのー」。
なんでわかるの、という新鮮な驚きがある。返答が遅れる。
気づくのってすごくないか。どれだけ解像度の高い毎日をすごしているんだ。
ぼくはどれだけ気づいてこなかったのだろうか。