白くま生態観察記

上洛した白いくまもん。観察日記。勝手にコルクラボ

久保ミツロウ『モテキ』と古谷実『シガテラ』

久保ミツロウモテキ』全4.5巻(講談社

古谷実シガテラ』全6巻(講談社

 

思春期において、自意識とのつき合いかたは、かなり重要な位置を占める。

自意識がないのは人間的にどうかと思うし、逆に自意識に振り回されても、人生は先に進まない。思春期を通して、ちょうどいい自意識との付き合いかたを見つけるのだと思う。だから、思春期にはありえないほどの失敗が続く。思春期を終えても、思いだすたび「ギャー」と叫びたくなるし、誰かに「おまえ、あのとき○○だったよな」とか言われると、恥ずかしくて家に帰りたくなる。そうやってひとは成長していく。

その自意識が、もっとも顕著にあらわれるのはいつか。

 

たとえば、桃栗みかん『群青にサイレン』では、「逃れられない他者と自分を比べたとき」だと言う。あいつはうまく行ってるのに、なんで俺はダメなんだ。理想と現実の乖離。挫折して、嫉妬して、自己嫌悪して、絶望して……たしかに、肥大化した自意識に振り回される典型例だ。

しかし、自意識がもっとも試されるのは、「はじめて好きな相手と向き合ったとき」なのではないか。多くの人間にとって異性である。

その点で、『モテキ』と『シガテラ』は同じ対象のふたつの側面を扱ったものだといえる。

モテキ』は、ある男がとつぜん4人の女性から連絡を受ける場面から始まる。「もしかしてあの子たちは、僕のことが好きなんじゃないか」。男は、相手の言動を深読みしつづけ、モテキが来た!のだと思い込む。4人のあいだでイロイロ思い悩みながら、しかし自分から行動できない。肥大化した自意識は、自分のことだけを考えて、傷つくことを極度に恐れる。結局だれともつきあわないが、自意識を制御しながら、周りとうまく関係していこうという気づきで終わる。

シガテラ』は逆に、女性とつき合うところから始まる。いじめを受け、性への鬱屈した感情をもてあましていた冴えない男子高校生は、「あのひと、君のこと好きなんだって。話してあげてよ」、という言葉をかけられる。しかし、自分からは何も動けない。思考だけが爆発しつづける。結局、あいてからの告白でつき合う。自分を受け入れていない彼は、つき合ってからも、自分の都合だけで暴走しつづける。「好きだよ」と言ってくれた相手を見ていないのだ。そうして、さまざまな事件に巻き込まれながら、欲望を出しまくる。最後に社会人になって振り返ると、「ああいうときもあったな」と成長を実感する。

こういう漫画を、自意識爆走系漫画と呼ぶ(白くま命名)。『モテキ』はつきあう以前の自意識を扱った。『シガテラ』はつきあってからの自意識を扱った。自意識の表と裏の側面である。

読んでいるだけで恥ずかしくなる。なぜなら、自分にも経験があるから。漫画のエピソードを読みながら、自分の失敗談を思いだしてしまうのだ。

 

自意識が肥大化したとき、その世界には、自分しかいない。「傷つくのは嫌だな」「なんであのひとはこう言ったのだろう」「こんなダメな自分なのに」「ああ、絶対に嫌われた」「もうぜんぶどうなってもいいや」「引きこもりたい」。自分のなかだけで完結する、どす黒い感情の渦。

他人と向き合う前に、自分と向き合えよと言いたくなる。

それでも、そんなやつにもかかわってくれる人間はいる。そういう人間のうち、もっとも未知で、もっとも遠く、もっとも向きあわないといけないのが、好きな相手だ。

好きな相手とかかわるときに、肥大化した自意識は爆走しつづける。周りはその迷惑を受けつづける。自分も周りも疲弊する。若くて元気なときにしか、克服が難しい病だ。

自意識爆走人間は、いつか気づく。

あ、自分のなかだけで生きていたな。周りのことを見ていなかったな。なんて自分はちっぽけな人間だったのだろう。周りはよく一緒にいてくれたな。ほんとうに、ありがとう。さようなら。