白くま生態観察記

上洛した白いくまもん。観察日記。勝手にコルクラボ

雑想――エッセーを読みながら自分を読む

「大切な情報をたくさん得ているかわりに、どうでもいい情報の洪水が、私の脳にはがんがん入ってきているのだ。

それを偶然にも一時的に中断してみたら、頭の中がすっきりした。どうでもいい情報はやっぱり害なのだ、とあらためて思った瞬間だった。どうでもいい情報は人間の意識をなんとなくぼうっとさせるのだ。

まるで旅行に行くように、あえて自分から情報を離れる期間をもうけるのは精神の切れが悪くなった時にとても有効だと思った。はじめは退屈にのたうちまわるが、時間が思ったよりもじっくりと流れていっているのを知ることになる。今まで、東京の時間の流れの速さは自然がないからだとばかり思っていたが、それ以外にも、大量の情報を処理するのに頭が忙しくて時間がどんどんたってしまうということもあるのかもしれない」吉本ばなな『バナタイム』(幻冬舎文庫、2006年)

 

エッセーを読む。

ぼくにとって、吉本さんの文章は、心を合わせるのが難しい。

文章を読むと、ぼくと吉本さんの世界はかなり異なっている感覚を受ける。異なるのは他人だからあたりまえだけど、より一層他人として迫ってくる気がするのだ。

吉本さんの文章は、内面世界を丹念に追っていくから、そういう感覚を受けるのかもしれない。

他人が息づいている。

とくに本の最初はとっつきづらい。その人がどういう人間なのかが、わからないからだ。文章を読んで戸惑いながら、自分の心を、吉本さんにあわせて修正していかないといけない。

30ページくらいかかる。

どういうレンズを通して世界を見ているのかな。どういうふうに心が反応するのかな。ぼくは、吉本さんの感じる世界に親和性があるのかな。

まったく親和性がない場合は、ダメである。そのひととは根本的に違う。違いすぎると、どうしても読めない。

でも結局のところ、人間の心のパターンは限られている。限られていて、共通しているからこそ、ひとは物語に感情を動かされる。まして売れている人なのだから、いうまでもない。どこかに扉があるはずなのだ。

吉本さんの内的世界に通じる扉を、自分のなかに見つければいい。

この作業を、「心をあわせる」と言う。心をあわせた瞬間に世界が立ちあがってくる。心がぐるんぐるん動かされる。最後にすとんと落ち着く。いいものを読んだなと思う。

 

今年になって、心をあわせられるようになった。自分のなかをよく見れば、じつは他人と同じような心の動きをしているときがある。その一瞬を切りだして、想像して、身をひたす。そうすると、いままで他人として表れていた文章が、身近な存在に変わってくる。

自分のなかをよく見る、ということは難しい。わかったようでわからない。そもそも自分というちっぽけで醜くてダメダメな存在を、ゆるしてあげる必要がある。ゆるしたうえで受け入れる。ぼくは結構ゆるせないタチだった。思えば、相田みつをの「人間だもの」ということばは、他人に向けるばかりで、自分にも向けられたものだと考えたことがなかった。自分が矮小な存在だということを、なかなか認められなかった。

文章が他人として表れていたのには理由があって、じつは、自分のほうこそ歩み寄っていなかったのである。文章のなかで他人が生きているのに、それを理解しようとさえしていなかったのだ。心が固く閉じていた。

 

――つけ足し

この作業をしなくても、自動的に心を連れていってくれる文章がある。

エッセーだと、鴻上尚史さんがあげられる。なんでこんなに読みやすくて、感情が動かされるのかと疑問に思う。どんなときに読んでも、一瞬で文章の世界に引きずり込まれる。おもしろいから、次々と読む。ネットでも適当に出てきたから、文章を乗っける。エッセーじゃないのはご愛敬。

「つまり、退屈だと思いつつ顔を出すとか、飲み会でしゃべりたくないのに何となくしゃべっているとか、気を紛らわせてばかりいると「何が本当にしたいのか」「自分は誰と話したいのか」というのが分からなくなっちゃうんだよね。

自分にとって必要でないものは削ぎ落としていかないと。本当は何をしたいのか、何を求めているのか、誰と話したいのか、それが分からない状況で苦しんでいるなら、目の前にあるものを除くしかないでしょう。食べ物でいえば、飢餓を経験していないので自分の食欲と関係なく時間で食べているだけだと「自分が本当は何を食べたいのか」が分からなくなる。それと同じなんですよね。

1週間くらい一人旅に出てみるのもいいと思います。「どんな人を求めているのか」「何が嫌いなのか」をとことん考えると見えてくるんですよ。多すぎる情報を遮断して自分の心をごまかすことなく、自分がどんな恋愛を求めているのかを知る時間を作るのがいいと思います」

鴻上尚史監督が語る 恋におちるメカニズム2」https://allabout.co.jp/gm/gc/313022/

 

今年の中盤までは、いろんな情報で紛らわせていないと耐えられなかったのかなと思う。グワーってなるときがあって、その予防もあって、どうしようもなくツイッターに呟いていた。ツイッターを開けば見知った人間がいるし、何か呟けばふぁぼが返ってくるし、「さらけ出すのがソロだろ」(『ブルー・ジャイアント』)みたいに吹っ切れたのもあったし。

孤独じゃないと錯覚していられた。明確には意識しないけれど、たぶん寂しかったんだろうと思う。

でも、結局は錯覚だった。

孤独なんだ。

それを認める。自分に向きあう。できるだけ純粋に世界と向き合う。

福永武彦は、孤独のさきに、愛を試みると言った。ぼくはこの愛を、特定の相手に向けたものではなく、世界へのかかわり方だと読んだ。

世界へのかかわり方には、たぶんそれぞれに適した形があって、文章でもいいし楽器でもいいし身体でもいいし武術でもいい学問でもいい。ひとつじゃなくていい。どれでもいいけれど、自分を表現できる手法で、世界にひらいていくことが重要なんだと思う。もちろん世界には特定の誰かも含まれる。

ツイッターは、ぼくを閉じ込めていた気がした。どうにも世界にひらいていく気がしない。閉じた世界で、刹那的に満足するツールになっていた。

消費されるのは嫌だとか言いながら、消費される場所で生きていた。自分で自分を消費していた。たくさん、成し遂げたいことがあるのに。

バカだったなぁと思って、つい垢を消した。余計な情報は、いまはいらない。自分を立てるときである。

そうはいっても、たまにツイッターを見たくなるから不定期に復帰している。

人間だもの(白くま)。