白くま生態観察記

上洛した白いくまもん。観察日記。勝手にコルクラボ

蛙化現象

蛙化現象、という話がある。

「好きな人ができても、その人から好意を向けられると、気持ち悪く感じてしまう」現象をさす。

たぶん、このブログが一番いい。実際の声を拾いながら、理論とも結びつけている。読んで衝撃を受けた。

『好きな人から好意を向けられると気持ち悪くなる』蛙化現象の話 - 名古屋みさとが頑張るブログ

記事や研究では、女性を中心に書かれている。交際経験のある女性のうち、7割が感じたことがあるなんて異常な数字である。興味深い心の動き。おもしろいから読んで損はない。

でも最近、蛙化現象は男性でも同じではないかと思うようになった。そういうふうになる人は、男にもいる。気もち悪くなるまではいかなくても、ナンカチガウと思って最後の段階で拒否する。男だって女だって、同じ人間である。育つ環境と自分の身体が違うだけで大きく変わるけれど、心の仕組みは基本的に同じだ。

 

恋愛は、本来的に不安なものである。

どこまでいっても、相手の気もちがわからないからだ。相手の気もちがわからないのに、仲良くなりたいという気もちが抑えきれない。だから相手の言動をひとつひとつ深読みしちゃって一喜一憂する。いつもある連絡がこないと、「あれ、なんか変なことしたかな」と気になるし、いつでもスマホをとれるようにしてしまう。急にラインがくると勢い余って開いてしまい、「未読のまま返信考えたかったのに」と思い悩んでも、すでに既読がついてしまっている。急いで返信すると、一向に返信が来ない。何か変なこと書いちゃったかな。グワー早く返信してくれー。

自分に自信がある人間なんてほとんどいないし(いたら怖い)、ずっと不安と向き合うことになる。つきあうことになったら、一時的に安心するけれど、新たな種類の不安と向き合う。そういうものだ。

逆にいうと、こういう気もちにならない恋愛は恋愛じゃない。

……というのが一般的な説明である。けれどぼくは、焦点の当てかたが甘いと思う。

恋愛をするときに、相手と真に向き合おうとする。相手の気もちは結局わからないので、いつまでも心が揺れ動いて不安定になる。相手の気もちが、どうしようもないのだ。

それは正しい。

でも、本当にどうしようもないのは、自分の心である。自分の心が自分のものではないことに気づくのだ。相手の言動にはそれほど深い意味はないんだろうなと知っていても、いつのまにか言動の解釈で頭がいっぱいになっている。連絡が遅いのには深い理由はないんだろうなと思いつつも、深読みがとまらない。好きな人に好きな人がいたら、諦めればいいのに、諦めきれない。好きな人が好きだっていってくれるなら、そう信じればいいのに、どうしても信じきれない。自分の心が、自分の思うとおりに制御できなくなる。

そうして人は、自分自身と対面する。誰かと真に向き合おうとするとき、そこに現れるのは自分の影である。とくに恋愛では、思いどおりにならない心とうまくつきあっていかないといけない。それが自分だから。一生つきあっていかざるをえない他人だから。

うまく心をコントロールできたふりをしたり、逆にまったくコントロールできないと開き直ったりするのはよくない。自分の心と向き合おうとしない臆病である。もっと悪いのは、心を見ないようにすることである。自分の心をなかったことにするのは、哀しい。

心は膨大なエネルギーそのものである。普通の状態では誰ともつながることができないから、一瞬の心のつながりを求める。そのエネルギーを糧にしながら、弊害にはうまくつきあっていけばいい。

 

上記ブログの最後には、晴れやかなコメントが紹介されている。たぶんこの人は、これに気づいたとき、心を軽く感じただろう。いままではどれだけ重かったのかと。自分自身と対面したのである。

これが愛だ。

 

私もそのような現象にずっと悩まされていましたが、今の彼氏はそれまでの男性とは違い、「いいところを見せるために取り繕い続ける」ではなく「全部さらけ出した上で認め合う」関係を築いたためか、相手の好意を素直に受け取ることができました。それまでは、「好きになった相手の事は全て好きになり受け止めなければならない」と勘違いしていましたが、お互いに短所も見せ合う事で、「いくら恋人でも無理な部分はある、何もかも認めなくてもいい」=「自分が完璧じゃなくても相手に好いて貰える」という事が分かりました。私がこれまで感じていた、「私なんかを好きなこの人は変」=「私は完璧じゃないダメ人間だから人に好かれることはない」という思い込みが間違っていた事が分かったんです。完璧じゃなくていい、ダメなところがあってもそれを擦り合わせればいいだけだ、と

 

こういうコメントを紹介したからといって、すべての人に同じような人があらわれるわけではないし、救いあえる関係を築けるわけでもない。

この人もいままでの思考パターン(臨床心理学では、自動思考という)を完全に捨て去ることは、できないだろう。ただ、自分にはこういう自動思考があるのだと自覚することで、心の檻にとらわれにくくなる。そうやって、自分の心とつきあっていく術を体得していく。

 

じゃあ、どうしたらいいんだろう、という話。

今年だけで結構な数の心理学の自我発達や臨床の本を読んだけれど、簡単に実戦できそうな方法がある。

そのひとつが、因果関係ではなくて、意味を考えるというものである。

蛙化現象をもつ人間がいるとする。

その人や周りの人は、蛙化現象を「通常ではない=悪い」と判断して、因果関係を考えだす。現在の悪い状態を治すにはどうしたらいいか、という視点で考えてしまう。そもそも良い状態だと認識していれば、何も因果関係を考える必要はない。悪いと考えるから、因果関係を見つけて、根本的な治療を探そうとする。

このプロセスは、当人にとっても他者にとっても、よくない(心理介入などの例外を除く)。悪いもの探しをすることは、当人にとってもつらいし、他者は「わかったような気になって」、いいことをしてあげた気もちになる。誰も救われない。

だから、意味を考えるのだ。

その人がいま蛙化現象になっているのは、どういう意味があるのか。

その人の現在を無価値にとらえる。現象は現象であって、悪いか良いかという価値判断は別の話である。そうなっちゃったものは、仕方がない。それがその人の人生であり、周りの環境だ。どうしようもない。

とくに自分自身では、こういう普通の態度で接してあげるのが重要である。いまの状態は、悪い状態ではない。その前提のもとで、どうしていこうかと考える。

だって、そもそも、この人はつらいんだ。

好きな人に好きっていわれると、なぜか気持ち悪く感じてしまう。こんなにつらいことがあるだろうか。嬉しいはずなのに、どうしようもなく気持ち悪い。ふたつの相反する感情に引き裂かれる。それだけでもつらいのに、「いまの自分は悪い状態なんだ」なんて、ますます責めたらいけない。「治さなくちゃ」なんて思わなくていい。心のなかでは、(たぶん)治したいのだ。苦しんでいるのだから。あらためて確認するのは、何の意味もない自傷行為

いまの状態にはどういう意味があるのか。

ゆっくり自分のなかに潜っていく。自分の心と対面する。檻を認識する。

そうして、人生は進んでいく。