白くま生態観察記

上洛した白いくまもん。妄想日記。妄想は妄想です。実在しません

希望とは、絶望を分かちあうこと

「きみのいう、愛っていうのは、具体的にはどういうこと? 何か一方的な救いのように感じるのだけど。そう思う原因は?」

こう問われたら、ぼくは、即座に答えられる。

「愛っていうのは、『ひとりじゃないんだよ』と実感させてあげること。相手に、自分自身で救いを与えられるようにすること。他人ができることは、じつは少ないんだけど、他人しかできないことがある」

けれど、こういう公の場所では、答えられない問いもある。原因については、ぼくの闇にかかわることだから、軽々には言えない。人間はだれしも、闇を抱えながら生きている。その闇はまず自分自身でほぐすものだし、必要なときに信頼しあう仲間内でだけ共有するものだ。闇を外にさらけだしながら歩くのは、純然たる暴力である。周りに配慮を強いるから。うつくしくもない。

闇を出さずに嘘で覆いながら生きることは、美しい嘘である。その嘘に気づいて、中身を共有したいと思うことから、愛は始まる。

 

「ひとりで抱えこまなくていいんだよ」

ぼくは、このひと言だけで愛を感じたし、心の檻から跳べるような感じがした。

ボールルームへようこそ』の多々良君だったら、「あなたを見てるよ」というひと言だった。彼にとって、母親が家を出ていった原体験が魂に刻みつけられていた。親しい人が、自分を見てくれなくなることに根源的な恐怖と愛の欠落を感じていた。だから彼は他人をよく見て拒絶されないように生きていたし、マコちゃんから「見てるよ」と言われたときに、この上ない愛を感じたのである。

『ハリポタ』のときと同じように、小さいことと思うかもしれない。しかし、たったひと言がそのひとを救う。言葉を発した側には、かならずしも愛はないかもしれない。ハリーが見た父親は、事実ではなかった。受け取った側が、その言葉に愛を感じるか否かが決定的に重要なのである。

ただし、ここからが重要なのだけれど、そういう決定的な言葉を言われたとしても、そのひとに依存するのは間違っている。そのひとも、同じように何かを抱えた人間である。救ってくれる女神ではない。『四月は君の嘘』の有馬君も一時的に依存するけれど、自立する。「弾かなきゃ」。それでこそ人間である。それでこそ、誰かが心のなかに生きているということである。

ぼくは、たったひと言を探しつづけている。

そして失敗しつづける。

 

希望とは、絶望を分かちあうこと

という、熊谷晋一郎さんの言葉がある。

まさにこのことを指す。

この文脈で希望とは、愛と同じだと理解してよい。「もう何があっても大丈夫だ」「世界はアウェーじゃなかった!」という正のエネルギ―で満たしてくれる。この状態で世界に接することを、岡本太郎は「芸術は爆発だ」と表現した。世界に自らをひらいて、ふくらんだ状態で生きることである。

でも、人間は弱い。こういう状態はいつまでも続かない。だからこそ、

自立は、依存先を増やすこと

という話にもつながる。いろいろなひとや仕組みに依存しながら、弱さを低減して絶望を分かちあうことができる。そのなかに自分も含まれる。臨床心理学で保険をかけてもいいし、内なる他人との対話を欠かさないことでも対応できる。

絶望に陥らない術を増やしていくことは、多方面に保険をかけることであり、自立である。しかしいみじくも記事で指摘されるように、「錯覚」なのだ。結局は何かに依存している。

そして、その依存先は物理的にも精神的にも有限である。

だからこそ、たったひとり、もっとも信頼できるパートナーを求めるのではないか。人間は自立しながら、自律して、ひとりで生きる。でも、ほんとうにダメになってしまうとき、どこかに最大の依存先が欲しいのだ。その依存先は、実際に機能する必要はない。それでは依存になってしまう。「ただある」だけで充分だ。その確信があるだけで、ひとは絶望しない。

ひとりじゃないから。

 

引用しておきます。

自立は、依存先を増やすこと 希望は、絶望を分かち合うこと | 東京都人権啓発センター

 

「自立」と「依存」という言葉の関係によく似ていますが、「希望」の反対語は「絶望」ではないと思います。絶望を分かち合うことができた先に、希望があるんです。

 先日、当事者研究の集会に参加したときのことです。精神障害発達障害を持ち、絶望を一人で抱えてきた大勢の人たちに会いました。そのとき感じた感覚はなんとも言葉にしがたかった。さまざまな絶望体験を互いに話し、共有することで、「もう何があっても大丈夫だ」っていう、不思議な勇気というか希望のようなものが生まれる。話や思いを共有できたからといって、実際には問題は何も解決していないのだけど、それで得られる心の変化はとても大きいんです。

 私は長い間、失禁の問題を誰にも話せず、心の中に抱え込んでいました。けれどある日のこと、外出先で漏らしてしまって、通りすがりの人にきれいに洗ってもらったことがあったんです。私は一人で抱えていた絶望を見ず知らずの他人と分かち合えたと思いました。このとき「世界はアウェー(敵地)じゃなかった!」という絶大な希望を感じたんです。たった一人で抱えてきたことを他人に話し、分かち合うことができるようになって、「もう大丈夫」と思えるようになったことは、私にとってとても大きかったですね。絶望が、深ければ深いほど、それを共有できたときに生まれる希望は力強いんですよ

 

 

健常者は何にも頼らずに自立していて、障害者はいろいろなものに頼らないと生きていけない人だと勘違いされている。けれども真実は逆で、健常者はさまざまなものに依存できていて、障害者は限られたものにしか依存できていない。依存先を増やして、一つひとつへの依存度を浅くすると、何にも依存してないかのように錯覚できます