三田誠広『いちご同盟』
『君嘘』は、『いちご同盟』へのオマージュだった。
高校生のとき、20歳には死んでそうだなと思った。
大学に入って、30歳くらいで死ぬなと思った。
体調を崩した時期には、残りの人生は消化試合だなと思った。いまにも死にそうだった。
明確に自殺をしたいと思ったわけではない。そういう衝動はあったけれど、何週間も継続したことはない。ただ、ぼくは30くらいに死ぬなと思っていた。とくに理由はない。こじつければ理由は出てくるけれど、なんとなく死にそうだった、それだけだ。
たぶん、何かを気にしすぎる人間は、同じような感情を抱いたことがある。自分の世界に閉じこもりがちな人間は、きっと。
そういう人じゃなくても、思春期には、ふと死ぬかもなと思う人も多いだろう。過ごしてきた十数年と、平均寿命の80歳を見比べて、その途方もない遠さにめまいがする。生きていられるはずがない、と素朴な感覚がある。悪いことに、この時期は人生に迷う時期でもある。この選択肢を選んだらより安定するんじゃないのか。でも楽しいのはこっちで……親は安定した道に誘導してくるけど、それでいいのだろうか。周りはあまり悩まず進路・就職を決めていくように見えるし、もしかして社会不適合なのはぼくだけなのだろうか……悩みはつきない。自分のなかに閉じこもってしまう。
とりあえず安パイをとろうと思える人はすごい人で、ぼくは現実と理想のはざまでキリキリと自身を締めあげるタイプだった。とはいっても、周り全員が大学進学する環境にいたから、そういう悩みにとらわれるのは大学生になってからだけど。
そろそろ死にそうだな、と思ってきた。
いまは、死ねないと思っている。人生をまっとうする選択肢だけが残されている。ぼくはそれを選ぶ。もう死ねない。なぜぼくが「死ねない」と思うようになったのかというと、決定的な何かが起きたからである。ここには書かないけど。
死ねないし、死なさない。
※
「北沢、お前は、自殺したがっていただろう」
ぼくは答えなかった。
「死ぬなよ」
と徹也は言った。
「お前は、百まで生きろ。俺も、百まで生きる」
徹也はぼくの腕をつかんだ。
「百まで生きて、その間、ずっと直美のことを、ずうっと憶えていよう」
……
「男と男の約束だぞ」
「わかった」
とぼくは答えた。(211頁)
『いちご同盟』が結成される場面である。15歳どうしの約束だから、いちご同盟。笑っちゃうようなゴロ合わせだ。
人は二度死ぬ。一度目は生物学的に死ぬ。二度目は周りの人たちに忘れられて死ぬ。
「ずうっと憶えていよう」という誓いは、俺たちが生きているかぎり、あいつも生きているんだ、という決意である。俺たちが死なすわけにはいけない。死ぬ人にとって、死んだ後も誰かが憶えてくれている、というのは大きな安心になる。『いちご同盟』で約束するのは、あいつがいない場所なんだけど。
どれだけ心強いだろうか。自分が生きた証を、誰かの心に託すということ。その確信があれば、なんだってできそうな気がする。死んでもいいかもしれない。
『いちご同盟』の主人公は、すべてを知って、ピアノに向かう。ベートーヴェンのピアノソナタ第15番「田園」を弾く。交響曲ではない。マイナーな方。
表現者というものは、心の動きが表現につながるひとのことを言う。主人公は、演奏しながら驚く。かつてない領域に触れる。ピアノの音と自分の心がつながるのだ。
こんな演奏は初めてだった。ふつうに弾いているだけなのに、音の響きに、深いものがこもっている。何気なく弾いていたメロディーや和音が、別の音のように聞こえる。わざと抑揚をつけ、テンポを崩して、感情をこめようとしていたいままでの自分の演奏が恥ずかしかった。(232頁)
自分の心が、ピアノを通して、音になる。音になった心を聴いて、驚く。循環的な奇跡が起きた。
感情をこめようとして、頑張ろう頑張ろうと意気込むほど音は逃げていく。いままでは、心と音がつながっていなかった。心ばかりが急いていた。
すべてを知った彼は、ピアノに向かって、指のおもむくまま心のおもむくままに弾いてみる。そうすると、音と心がつながった。ああ、これか。
この感覚を知ったところが、出発点である。一瞬の調和を、いかに成立させていくか。終わりのない道に踏み出す。孤独な探求である。
音楽の先生が言う。
「何だか、すごく大人になったみたい。受験のこと、決心がついたのね」
自分の心が変わったことは、音や雰囲気として外につながっていく。周りの人はそれを受け取って、何か変わったねと言う。言葉をかけられて、嬉しくなる。
でも、変わったことを見せたい相手は、もういない。この音を聴かせたい相手は、もういない。心のなかでずっと生きつづけるけれど、声をかけてはくれない。
もういないんだ。
さよなら。
生きるよ。
忘れない。