白くま生態観察記

上洛した白いくまもん。観察日記。勝手にコルクラボ

居合とは何か――初心者の「初心者性」のありか

 

居合で重視されるのは、「そこに敵はいるか」「敵を斬れているか」「様式美を守れているか」の三つである。

1.そこに敵はいるか

あたりまえだが、居合では敵を刀のとどく範囲にとらえる必要がある。そのために体さばきなどを用いて、対敵の位置関係・自分の体の状態を適切に保つことが要求される。これが「そこに敵はいるか」である。足さばき、体さばき、重心移動、目付けなどをすべて連携させながら、敵を自分の範囲にとらえること。

敵のいない居合はただの健康体操である。しかし、よく見ると高段者でも敵のいない居合をしている。高齢者が多いから仕方ないけれど、それ以外の人は何のために居合をやっているのだろうか。たとえば目付けでは、遠目の目付けや八方目と呼ばれる古武術に共通の目付けをする。敵の目に中心焦点を合わせながら、体全体を視界におさめる目付である。しかし意外とできていない人が多い。とくに初心者は、どこを見るのかに気をつけると、上達が早まる。

あと動きだすとき、スムースな初動に移れない体さばきをしている人もいる。敵からすれば、初動を見た瞬間に「後の先」を取れる。居合の目指すところは、刀を鞘から抜く前に勝負を決している状態である。敵に「後の先」をゆるす初動をとることは、負けを意味する。こういう居合をとる人は、目の前に敵がいないのだ。

考えてみてほしい。敵がいない居合には、何の意味もない。チャンバラでもやってたほうがマシである。最初は模造刀を使うとはいえ、日本刀をもって敵に相対しているのだ。想像してみれば、自然と緊張感が生まれるはず。生死にかかわる緊張感がない居合をすれば、即座に見抜かれる。そこには敵がいないのだ。

 

2.敵を斬れているか

刀で敵を斬るのが居合である。斬れなかったら居合ではない。簡単にみえて、じつは刀を扱うのが難しい。運刀法が重視されるゆえんである。

刀身は74cmくらいで、刃先から峰まで数センチである。刃先から峰まで数センチあるというのがつらい。普通の包丁であれば、斬りたいものの上に刃先をおいて、上からトンと斬ればいい。しかし刀身が74cmとなると、もはやマグロを解体するときの包丁を想像してもらったほうがよい。どこに刃先を入れるかを見極めて、刃筋を通さなければ斬れない。すこしでも刃筋が曲がったら刀はとまる。斬れない。

しかも、斬るとき、敵は動いている。

斬りたいときに斬りたい場所に刃先を到達させ、十分な勢いのまま敵を斬りつけ、斬り終えたら即座に次の行動に移れるような状態を保つ必要がある。難しい。横一文字の抜きつけ・真っ向からの斬り下ろしという基本技に加えて、左右の袈裟切り、横車や切り上げ、刺突、受け流しなど、さまざまな運刀法がある。10か月たっても、まったくできるようになっていない。

初心者が用いる居合刀には樋が彫ってある場合が多い。刃筋の通った運刀ができていると、風切音(樋鳴り)がする。樋鳴りにも、斬れている樋鳴りと斬れていない樋鳴りがある。斬れている樋鳴りだと、本当に空気を切り裂く高い音がする。斬れていない居合では、低めの音が鳴っているだけである。樋鳴りがしていても、斬れているわけではない。もっと言うと、イメージしている敵の身体で樋鳴りがしていないといけない。しっかりした樋鳴りは斬れていることを意味する。敵を斬らずに、自分の頭上を斬っても意味がない。その樋鳴りは余計な樋鳴りである。余計ということは力の無駄遣いなので、対敵行動の継続を阻害するのだ。敵の場所で、樋鳴りをしなければ意味がない。

 

3.様式美を守れているか

単純に演武としての決まりごと・美しさである。

たとえば、斬りつけの足の幅は二歩半、横血ぶりは腰の高さで床と水平とか、正座の業では足は三直角とか。はっきりいって部外者に説明する意味はない。完全に内輪の話なので、割愛する。 

居合を教えるのが下手な人がいる。

そういう人は、3の様式美しか教えてくれない。様式美というものはやっかいで、様式は1にも2にも存在している。だから様式だけを教えることで、1や2も形だけは教えることができる。

しかし様式を通して1,2を教えられてしまうと、居合の動きにはならないのである。いくらパーツパーツが正確であるからといっても、全体として「どこか違う」という印象になる。

どこか違う。この印象はただしくて、ぼくに言わせれば、「居合の動きになっていない」のである。つまり、居合に対する意識が身についていないのだ。居合の内的な理屈を頭と身体に叩きこんではじめて、「居合の動き」がわかってくる。

ぼくの理解では、内的な理屈は1と2である。

だから、初心者には、まず1と2を徹底的に理解してもらわなければいけない。自分の身体をどう操ればいいのか。刀をどう運用すればいいのか。かならずしも言葉にならない領域まで、身体に染みこませる必要がある。

教えるのが下手な上段者は、1と2を理解してもらおうという意識が足りない。だから3を中心に教える。そうして「なんか居合っぽくない」という感想を抱いて、さらに細かい様式を教え始める。細かい様式だけを積み上げても、居合の動きにはならないのに。

なぜ居合の動きを意識しないのか。簡単である。頭を使っていないからだ。そういう上段者は、長い期間居合をしつづけた結果、(一応)居合ができるようになっている。でも頭を使っていない。ただ反復練習を積んだだけ。自分の動きが何に支えられているのか。どこの筋肉を動かせば重心移動の効率が上がるか、手の裡を1mm動かすと刃先にどのくらいの影響があるのか。このような意識をもって練習したことがない。つまり、何が居合の動きで、何が居合の動きではないのかを考えていない。

ぼくは漫然と練習させられるのが嫌いなので、考えつづけている。初心者にまず重要なのは、1と2である。その上で3を積み上げると、三段四段くらいの動きになる。

ぼくは幸いにして、途中から1と2を徹底的に教えてくれる人に出会った。その人の言葉に従いながら、動きをコピーしている段階である。1と2を教えてもらうだけで、居合の動きになる。

 

初心者の「初心者性」は外側にあるのではない。意識に問題がある。「居合とは何か」について、身体的にも脳みそ的にも理解していない。これを初心者という。

意識の違いに気をつけさせてあげるのが、上段者の役割である。