鴻上さんの大人
谷川俊太郎さんの大人の話を読んで、鴻上さんの「大人」の話を思いだした。おすすめです。
鴻上尚史『鴻上尚史のごあいさつ1981-2004』(角川書店、2004年)
高校時代の彼女は、何ものかにすがることを、はっきりと拒否しているように当時の僕には思えました。それでいて、少しも無理を感じませんでした。その当時、無理をしながら、すがることを拒否しようとしていた僕には、そんな彼女は、とても魅力的に思えました。もちろん、それは、とても不幸な出来事が、彼女をそう変えたからでもあります。103頁
困ったのは、自分で自分の退屈の原因がわかっていることでした。それは一言で言うと、「今ある自分と、ありたい自分とのギャップ」という退屈でした
……
僕は、あの当時、驚くほどたくさんの人と会話をしましたが、じつは誰とも会話してはいませんでした。
長い間、ずっと不思議だったあの人の言葉の意味が、はっきりとわかるのです。その時は、どんなに必死にわかろうとしても、まったくわからなかったくせに、麻雀をしているまさにその瞬間、いとも簡単にその言葉の意味がわかるのです。
そして、わかった瞬間、その言葉は、僕を引き裂きます。
今ある自分と、ありたい自分との距離ばかり見つめていた僕は、あの人の言葉を見つめていなかったという事実が、僕を引き裂くのです。あの人がどれほど臆病で、どれほどたくましくて、どれほど楽しんでいたかという事実が、その言葉に語られていたという事実と、決して気づかなかったあの時の僕に、僕は引き裂かれるのです。126-129頁
劇団を旗揚げした当時、五〇歳以上の人から言われたことを、僕はみんなの話を聞きながら、思いだしていました。その人は、僕にこう言ったのです。若い時の方が保守的なんだと。若い時は、じつは、守るべきものが何もないからこそ、すべてを守ろうとして保守的になるんだと。183頁
『自己表現』とは、思っていることと、やっていることが、よりつながっていることと、僕は思っています……
『素敵な自己表現』をするには、まず、自分を知らなければなりません。自分を知らないと、表現のしようがないからです
……
それは、たぶん、「癒された」んだと思います。
自分の抱えている何かを、ひとつひとつ、ほぐしていくことによって、楽になっていく状態。
ですから、『自己表現』は結果だといえます。自分の思いや感情を、表現に近づけようとしたのではなく、思いや感情を見つめることで、結果的に表情や身体に、とても楽に現せられるようになったと言えます。……
が、ここからが問題なのです。
他人を観客として人前に表現として自分をさらすというレベルになると『癒やし』は消え去り、戦いの匂いに満ち満ちるのです。
表現をするとは、なんと残酷なことだろうと思います。
久しぶりに会ったある女性は、とても、優しい顔をしていました。大人の顔になったね、と二〇代半ばの彼女にそう告げると、つきあっている彼が、愛をたくさんくれたのと答えました。親がくれなかった愛を、彼からたっぷりともらったの。だから私は満ち足りたの。彼にはとても感謝しているの、と。
でもね、と彼女は言いました。私は満ち足りたから、やっと自分で自分のことを冷静に考えられるようになったの。そしたら、あんなに大きかった彼の愛が重くなってきたの。一人で本や映画やビデオを見る時間が欲しくてたまらないの。なによりも、一人で考える時間が欲しいの。こんなことを考える自分が嫌でたまらないんだけど、でも、そう思うの。186-190頁
激しくひりひりした人を見ると、その人は、相手との人間関係に悩んでいるのではなく、自分自身との人間関係に苦しんでいるように思えます。自分自身との濃密な人間関係に苦しんでいるように思えるのです。196頁
この文章を読んで「そういうときもあったなぁ」と実感した人は大人です。「あたりまえのこと言ってるじゃん」と実感がともなわない人は、子どもかもしれません。
心理学者レーヴィンジャーのいう自我同一性の確立です。この状態にいたるには、いろいろなルートがあります。そして、この状態は、自然に到達するものでもない。多くの人の自我の成長は、あるところでとまってしまう。自我の成長段階を、昔の人は「器」と呼んだのかもしれない。