日吉でやらない卒業式
今年の慶應は、卒業式を日吉でやらないらしい。あの体育館が改修工事中で使えないから、パシフィコ横浜を使うとのこと。
例年なら、卒業生は図書館前の諭吉像をバックに卒業写真をとる。卒業式終わって○○時に集合ね、みたいな約束をしておくのだ。
卒業式が終わるとその時間まで、ぼくたちは、ぽろっとこぼれ落ちた空白の時間に投げ出される。
卒業した高揚感で、若干心が浮足立っているけれど、とくにやることはない。諭吉前に集まる時間まですこしある。同じクラスの人としゃべったり写真をとったりしながらも、それぞれサークルやゼミの人たちと集まりに散らばっていく。何をするでもないぼんやりとした時間。
ぽつん、とひとりになる瞬間がある。
となりに人がいなくなると、周りの関係ない人たちの笑顔が目に入ってくる。男はスーツだし、女は振袖。さすがは慶應なので、かっこいいしかわいい。みんないい笑顔だなぁと思いながら、この空間は最後なのか、と実感してくる。
時間があるので、部室や生協、ロシ語の教室をぐるっと回る。誰かと一緒にではなく、自分ひとりで回りたかった。日吉に2年間もいれば、いろんな場所に愛着が湧いてくる。3階にある部室の隅っこで、ソファーに座りながら空を見上げた。青空だった。窓を開けて、ここちよい風を浴びる。「あーあ、卒業か」と口にして、ぼーっと時間を過ごす。日吉時代のぼくは、どうしようもないほどのバカだった。いまでもバカだけど、あのときは、とりわけ。
愛着が湧いてくるなんていったけど、愛着なんてものはなかった。この場所にはめったに来ないんだと突きつけられてから、なんとなくさみしくなっただけだ。もうあのときは戻ってこないんだとさみしくなってしまった。
人それぞれに、想い出とさよならするやりかたがある。ぼくはひとりでたたずむタイプだし、ほかの人はみんなとワイワイやるのかもしれない。
ワイワイやるのは、最後だと思うとさみしくなってしまうけれど、あえてさみしさを出さずにワイワイしているように見えた。「さみしいね」って言ってしまうと余計にさみしくなりそうだから、だれも言わない。
その光景が、かえってさみしそうだった。
今年の卒業生は、卒業式後の手持ち無沙汰な時間をどう過ごすのだろうか。