白くま生態観察記

上洛した白いくまもん。観察日記。勝手にコルクラボ

犬の話

この3月で、さくらが15才になった。

さくらは、ぼくが小学4年のとき家にやってきたメスの柴犬だ。やってきたときはまだ生後数ヵ月で、小学生の腕のなかにすっぽり収まるくらいの小ささだった。

一家全員で迎えにいった帰りみち、名前を付けることになった。ぼくが「誕生日が春だし、女の子だし、さくらでいいんじゃない」と言ったら、反対もなくさくらで決まった。腕のなかで落ち着かなさそうにしているさくらに、「さくら」と呼び掛けても反応を示さなかった。名前が決まったばかりだから当然だった。

 

1才になるまでは、家のなかで飼っていた。いちおう首輪はつけていたけれど、さくらの特技は首抜けだった。ギューッと足で踏ん張って、首輪から首を抜いてしまうのだ。

「ここでおしっこするの!」としつけている最中だったから、夜中に首抜けをされると悲惨である。翌朝、座布団や洗濯物のうえにおしっこやうんちをしていて、父親や母親が「コラ!」と怒ることになる。「赤ちゃんなんだし、べつにいいじゃん」と言ったら、「掃除してもらうよ」と凄まれて、めんどくさかったぼくはさくらを注意するほうに回った。散歩ちゅうのうんちを取るのはよくても、部屋のなかにあるうんちやおしっこを片づけるのは手間だった。

さくらは怒られてもケロッとしていた。したいことをしているんです、何か悪いのですか?

 

1才を越えると、外で飼うようになった。犬小屋を作って、敷物を敷いて、長いリードをつけて自由に動けるようにした。

すると外でも首抜けをして、勝手に近所をトコトコ歩くようになった。学校から家に帰って、さくらが小屋にいないと大変である。おやつを片手に「おーい」と探すハメになる。

一家全員で探し回ったことも、一度や二度ではない。迷い犬ということで、遠くの家に預かってもらっていたこともある。さすがにまずいということで、首輪をきつめにしたり、柵を頑丈にしたりはしたものの、なぜか、いつのまにか家の外にいる。ぼくらが「ほら、おやつがあるよ」とおびきだそうとすると、ニコッと笑って近づいてきて、まるでおいかけっこをしてるみたいにすぐ逃げ出す。

犬なんだから危ないことは避けるだろうな、と思っていたぼくは、正直、おいかけっこを楽しんでいた。今度はいつ脱走するかな、とまで思っていた。首輪なしのひとりの冒険は、さくらにとっても楽しいだろうと。おてんば娘だった。

 

ある日、友達と一緒に空き地でさくらと遊んでいた。ボールを投げて、さくらに取ってこさせる遊びである。さくらは毎回意地悪して、ボールをなかなか渡してくれない。口にくわえたままのボールを、ぼくは綱引きしてゲットした。そういうところも楽しかった。

しかし何回もやるとさくらも飽きたようで、空き地から脱走した。ぼくらはおいかけっこをしているつもりで、全力でさくらを追いかけた。ただ、どうしても犬のほうが速くて、見失ってしまった。息をきらしながら探し続けていると、ギャン! という鳴き声が聞こえた。急ブレーキの音もした。聞いたこともない声だった。声のした方へ駆け寄ってみると、トラックの前でさくらが右足をあげて固まっていた。

足の皮がべろりとめくれて、赤い肉と白い骨がむき出しになっていた。ポタポタと血が流れていた。頭が真っ白になって、「急に犬が飛び出して……」と言う運転手さんに反応もできないまま、さくらを抱き上げて家に帰って、急いで母親と動物病院に行った。

「ごめんなさいごめんなさい。首輪はずして遊んでて」と泣きながら医者や母親に謝り続けた。さくらの表情はショックで固まっていて、だらりと口が開いていた。正面から見ることはできなかった。

そのままさくらは手術を受けた。傷口を縫って入院した。ぼくは放心したまま家に帰った。さくらの血とぼくの涙で、服はグチョグチョだった。ところどころ血が乾いて、糊みたいにパリッと光っていた。

 

結局、皮が剥けただけで、とくに大事はなかった。骨も折れていなかったし、内蔵も問題なかった。

しかし、さくらの心に大きな傷が残った。それ以降は首抜けしなくなったし、遊んでいても道路に飛び出したりしなくなった。散歩中でも、周囲を跳ね回ったりしなくなってしまった。

真相はわからないけれど、たぶん、「無邪気でいると、大きな怪我をする」と学習してしまったのだ。自然な無邪気さが消えてしまった。

それを消したのは、ぼくだった。

散歩に行くたび、家で撫でるたび、「もっと跳ね回っても大丈夫だよ。怖くないよ」と言い続けた。しかし、ショックは大きかったみたいで、昔のような無邪気さは戻ってこなかった。無邪気なさくらを殺してしまった。周囲を過度に警戒しながらじゃないと、遊べないようにしてしまった。

 

事故から数年たつと、無邪気さを取り戻してきて跳ね回るようになったし、ボールでも遊べるようになった。首抜けしてニヤッと笑うようにもなった。

それでも、突き抜けたようなハチャメチャさは失われてしまった。

 

ずっと「ごめんね、ごめんね」と思っている。傷口を見るたび、とりかえしのつかないことをしてしまったと思う。

けど、このまえ実家に帰ったとき、さくらが駆け寄って甘えてきた。「最近元気ないのに、○○が帰ってくると元気だねぇ」と親が言う。「そうかな、実家にいたときと変わらないけど」と返した。

さくらは、許してくれているかもしれない。

 

あーあ、おてんば娘も、ついにおばあちゃんになっちゃったか。なんて思いながら、色素が抜けてきた茶色い毛を撫でていた。