アレデ音楽シテイルツモリナンダカラネ
ぼくは、ツイッターで「芸術を語る視線を手に入れられる本」と評した。著者の実感とあわせて、思考の軌跡をたどれる本である。素晴らしい。
印象的なエピソードがある。
著者がドイツの友人宅を訪問したときの話。
地下室からモーツァルトのソナタが聴こえてきた。友人は地下室を音大生に貸していたのだ。その演奏は、指はよく回っていたけれど、タイプライターを叩くような無味乾燥だった。著者は「上手い」とは思った。しかしそれ以上の感想はない。
ドイツの友人はすこし日本語が喋れたようで、この演奏を聴きながら顔を歪めて
「アレデ音楽シテイルツモリナンダカラネ」
と呟いた。
たったこれだけ。
しかし芸術を体験する際の言葉の重要さを示している。日本人は「上手い/下手」という枠組みをまずあてはめがちだけれど、クラシックの地元の人は「音楽している/音楽していない」という枠組みをあてはめる。心を音で表そうとしているかが決定的に重要だからだ。心をこめようとしている音はすぐわかる。そうじゃないのもすぐわかる。
芸術を語る言葉は、芸術体験をかなりの程度で規定する。「音楽している/音楽していない」という言葉を手に入れたら、「上手い/下手」ではない世界をはっきり認識できる。音楽をやっている人にとって感覚的にはあたりまえの話だけれど、端的に示す概念があることは重要だ。誰かに伝えたいときに、すぐに伝わるのだから。
ほかの分野でも同じで、何かを育んできたネイティヴの人のあいだでは、こういう言葉・概念が洗練されてくる。音楽でも、文学でも、ダンスでも、絵画でも、映画でも、なんでも同じである。もっと言うと、人間関係や日常生活でもね。
そういう言葉を身に付けていくのは、芸術の体験のしかたを変える。語る言葉が増えていくと、日常生活も豊かになっていく。
いままで見えていた風景が、ほんのささいなことで一変する瞬間。
こういう瞬間が好きなんだ。