白くま生態観察記

上洛した白いくまもん。観察日記。勝手にコルクラボ

高次の会話

「言葉にしてくれないと、わからないよ」と言われたことがある。

思いを口に出すのは恥ずかしかったり、うまく言えない気がしたりして、口をつぐんでしまう。すれ違いが生まれて、どんどん積もっていって、ある一点で爆発する。気づいたときには、もう手遅れ。

と、言われるけれど、

言葉にしないとわからないなんて、ずいぶんさみしいな、と思う。言葉に頼っている時点で、相手とのコミュニケーションは、すでに破たんしているじゃないか。

 

NHK『プロフェッショナル』で、羽生永世七冠の回があった。羽生さんと森内さんの名人戦が印象に残っている。

彼らは、盤上で会話をしているのだ。64マスのなかで駒を動かしながら、相手の思考を読み、戦いの流れを読み、相手に一歩先んじようと脳みそを振り絞る。駒の動きひとつで、相手の思考が自分に流れ込んでくる。相手が将棋史上、前例のない手を指してきたら、呼応して前例のない手を指しかえす。まだ見ぬ将棋の宇宙に、ふたりだけの棋譜を刻んでいく。外側から見ている棋士たちには、ふたりのやりとりは伝わらない。その場で戦っているものにしか、共有できない領域があるのだ。ふたりは、このやりとりが楽しいから自然と顔がほころんでくる。試合をしているというよりも、この楽しい時間がもっと続いてほしい。この相手と、もっと先へたどり着きたい。

 

本来、やりとりに言葉はいらない。

同じレベルの人が同じ土俵に上れば、どんなものを介しても、高次の会話ができるのだ。高次の会話は、言葉では再現不能だし、言葉にするよりも情報量が多い。その場にいる人にだけ、回路が開くのだ。その回路をとおして、言葉以上の密度でふたりの世界がつながっていく。

どの分野でも、その状態に至れる。たとえば音楽なら、奏でる音を介して会話ができる。ダンスなら、動きを介して会話する。絵画や詩でも同じである。恋人なら、見つめあうだけで充分かもしれない。そういうとき、言葉は邪魔なのだ。ふたりの世界が直接つながっているのだから。

この状態は理想である。同じレベルの人間でも、どちらかの体調が悪かったりして、集中できなかったら無理だ。すごく繊細で壊れやすいからこそ、つながった瞬間は愛おしい。このまま続いてほしいと思う。

 

もっと言葉以外で世界とつながる方法を信じたほうがいいのにな、と思う。

言葉は不自由なんだ。

 

(付け足し)

そして。

不自由だから、自由なのだ。