『アナ雪』の不幸な解釈と、ほんとうの「ありのまま」について
『アナと雪の女王』は、日本では主題歌が一人歩きしてしまい、内容が伝わっていない悲しい映画だ。
主題歌の「let it go」は、NHKでも取り上げられるほどの露出になった。どうも「ありのままの自分を肯定する動き」「自分の感情を解放する喜び」がウケているらしい。
――ありのままの 姿見せるのよ
――ありのままの 自分になるの
雪の女王エルサが歌いながら、魔法で氷を作りだして城を作っている映像はたしかに美しい。耳にもここちよい。
しかし、ありのままの自分を肯定しているのは、この部分だけである。
ほかの部分は、まったく否定しているのだ。みんなわかっているのに、触れようとしない。なぜなんだ。
映画を見なくても、この歌の原詩を読めば、わかるはずだ。
第一に、この歌で歌われる「ありのまま」というのは、否定形のありのままである。
「Let it go」を語義通りに受け取れば、悩み(it)を手放してもよい(let ~ go)という意味である。いまの私を煩わせているものを、一回手放そうと言っているだけだ。
「ありのまま」と訳したのは、すばらしい。間違いない。けれど、たまには原詩を確認する必要がある。
日本語でありのままと言うと、自分の素や特徴を出していこう! というプラスの意味があるかもしれないけれど、let it goには、そういうイメージはない。マイナスの状態にある自分を、フラットにしようと言っているだけである。この断絶は深い。日本語ではプラスのイメージだけれど、英語ではフラットのイメージである。
また詩の最後は、こう終わる。
The cold never bothered me anyway
悩みitとは、冷たさcoldである。歌の原詩にもあるとおり、「すこしも寒くないわ(もう寒さに煩わされることはない)」と言っている。これを字義どおり受け取る人は間違っている。寒さに煩わされているから、「もう煩わされることはない」と言っている。逆にいうと、寒さを感じていなければ、わざわざ言う必要がない言葉である。
寒さを克服したと言いながら、寒さにとらわれている。ほんとうに寒くなければ、こんなこと言う必要がないんだ。あたりまえなんだから。
つまり、ほんとうは寒いのに、「もう寒くない」って強がっているだけである。小学生の男の子が、ほんとうはあの子のことが好きなのに、「ただちょっかい出しただけ。ブスじゃん」って強がってるみたいにね。ほんとうにブスだと思ってるなら、ちょっかいなんて出しません。
この歌は、泣きじゃくる子どもの歌である。ありのまま、let it goと言いながら、逆説的に、そうなれていないのである。Let it goできてないから、let it goしようと言っているのだ。悲しい歌なんだよ。裏返しのありのままだ。
映画を見ると、なおさらはっきりする。
ぼくは映画を見るまえ、「そうだよね。ありのままの自分を出して、生きていくことが重要だよね」と思っていた。当然、映画の伝えたい内容もそこだと思っていたから(だって、あれだけ話題になっていたし!)、ラストに歌われると思っていた。
しかし、地上波で映画を見た瞬間、間違っていたことに気づいた。この歌は、エルサの決定的な間違いを補強するために使われていた。
前段階から追っていこう。
王女エルサは、自分では制御できない氷の魔法を、城の部屋に閉じこもることで解決しようとしてきた。それは妹を傷つけたくないという優しさだったり、親に拒絶された絶望からだったりするけれど、やがて自分で自分をがんじがらめにして、にっちもさっちもいかなくなった。
エルサがlet it goを歌うのは、いよいよ魔法力がこぼれだして城全体を凍らせそうになったときだった。妹を傷つけるのが嫌だったから、城の一室を飛びだした。山の中腹で、ずっと閉じ込めてきた魔法力を爆発させて、自分だけの氷の城を作り上げる。
その最中に歌われたのがlet it goである。いままでの自分からの解放ではあるけれど、けっしてプラスのイメージをもってはいない。マイナスをフラットにするため、いったん全部をぶちまける必要があっただけである。
事実、この場面の帰結は悲惨なものになる。あれだけ傷つけたくなかった妹に、致命傷を与えてしまうのだ。その傷は、だんだんと妹をむしばみ、やがて殺す。しかしエルサは妹を傷つけたという現実を受け入れられずに、妹から目を背ける。間違った形のありのままだったのだ。
最初っから最後まで、安易な自己肯定を批判している。
エルサは、自分で自分を閉じこめる城を作った。けっして美しくない。心の檻が、冷たい氷の城となって具現化しただけである。だから、自分だけの心(城)のなかに他人が入ってきたら、反射的に攻撃してしまった。
エルサは、愛を信じられなかった。
Let it goは、ぼくに言わせてもらえば、エルサの魂の叫びである。泣きじゃくりながら、「誰か私を愛して。ひとりだけの世界なんて嫌だよ。寒いよ」と懇願している。年齢に見合わない魂の小ささであり、エルサの怠慢と未熟である。かわいそうだった。
この歌のどこに、ありのままを賞賛する要素があるというのか。
映画が終わるのは、エルサが愛を信じられるようになったときである。
あたりまえだ。こんな間違った「ありのまま」を、映画のプロが賞賛するはずはない。氷の城を作ったエルサのありのままは他者の拒絶でしかなく、つまり自分自身の否定である。
氷を溶かしたのは妹からの愛である。エルサは、間違って間違って間違ったすえに、愛を信じることができた。愛を受け入れて心の底が温まった瞬間に、氷魔法を制御できるようになる。
間違ったありのままで作り上げた氷の城は、自分を否定するものであり、他者も拒絶した。
愛を信じて自分を信じられたとき、氷のスケートリンクを作りだして、皆と祝った
『アナと雪の女王』は、愛の物語です。
愛を信じられないと、心は『Frozen(原題)』になってしまうのです。冷たいもので冷たい力を制御できるはずがないでしょう。温かい心で冷たい力を使えば、冷たいけれど温かくできるのです。だってもう冷たくないんだから。
この映画で真にありのままだったのは、妹です。妹は愛そのものでした。ありのままってのは、全身に愛が満ちている状態なのです。