白くま生態観察記

上洛した白いくまもん。観察日記。勝手にコルクラボ

三島由紀夫『小説読本』

菫(すみれ)の花を見ると、「可憐だ」と私たちは感ずる。それはそういう感じ方の通念があるからである。しかしほんとうは私は、菫の黒ずんだような紫色の葉案を見たとき、何か不吉な不安な気持ちを抱くのである。しかし、その一瞬後には、私は常識に負けて、その花を可憐なのだ、と思い込んでしまう。文章に書くときに、可憐だと書きたい衝動を感ずる。たいていの人は、この通念化の衝動に負けてしまって、菫というとすぐ「可憐な」という形容詞をつけてしまう。このときの一瞬間の印象を正確につかまえることが、文章の表現の勝負の決定するところだ、と私は思っている。その一瞬間に私を動かした小さな紫色の花の不吉な感じを、通念に踏みつけられる前に救い上げて自分のものにしなければならないのである。

出典:伊藤整「書くことの実感と論理」野間宏編『小説の書き方』

 

三島由紀夫は小説家を評して「一種独特の臭気をもった、世にも付き合いにくい人種」と言う(『小説読本』)。言い得て妙である。

小説家が独特の臭気をもつのは、冒頭にあげた文章みたいな過程をたどるからだ。通念化される前の一瞬をつかまえて表現しようとする。これを繰り返すと、通念そのものが可視化されて通念を拒否できるようになる。全部の感覚を解体して再構成するようになる。最後に残るのは、自分の身体感覚に紐づいた固有の感覚だけである。

菫を「可憐だ」と思わないまでも、自分の感覚をつかまえようとしない普通の人たちからすれば、「一種独特の臭気をもった、世にも付き合いにくい人種」と見えるのはしかたない。

通念に侵された人たちのなかにも、小説を好んで読む人がいる。

こういう読者のことを、非社会的な内的な動機を強くもちながらも、それを小説に託すことで解消する善良な市民だと、三島は言う。ほんとうは俺たちみたいにやりたいのに、閉じこもってるんだろ? とでも言わんばかりだ。

強烈な皮肉である。