白くま生態観察記

上洛した白いくまもん。観察日記。勝手にコルクラボ

感情は客観的である

音楽体験には適切な感情の構えが重要であると言ったけれど、感情とは何か、という問題を考えたい。感情を説明しなければ、どう構えたらいいのかを説明しきれないからである。

 

以下の文章は、三木清『人生論ノート』から取ってきた。これをタネに、感情の全体像に迫る。

 

「感情は主観的で知性は客観的であるという普通の見解には誤謬がある。むしろその逆が一層真理に近い。感情は多くの場合客観的なもの、社会化されたものであり、知性こそ主観的なもの、人格的なものである。真に主観的な感情は知性的である」

 

どう思われるだろうか。

一見したところ矛盾した文章である。感情が客観的で、知性が主観的であると三木は言う。なんだかレトリックでだまされた気がする。逆なんじゃないか、と思われるかもしれない。

 

それでも、哲学者が言っていることである。誰でも気づくような矛盾をそのままにしておくだろうか。そんなわけはない。

ではなぜ三木はこのような言葉を残したのか。

矛盾の奥に通底する世界観を考えたい。

 

 

ぼくたちは、普段の生活を営むために感情を必要としている。心理学的には情動というけれど、用語の細かさは横に置いておく。この感情は、進化的に形成されたものである。生き残ってきた人類が確率的に身につけていたのが感情である。

たとえば、木陰で休んでいたときに、ヘビがそっと寄ってきて、いきなり飛びかかってくる。思わぬうちに二の腕が噛まれる。驚いて飛びあがる。ヘビを振り払おうとする。ヘビが離れないから、手元のナイフで叩き斬る。

自分に危害を加えてくるものは怖い。この感情があるから危険から自分を遠ざけておける。つぎは、木陰の周辺をよく調べてから休もう。たまたま毒をもってなかったけど、解毒剤も身につけるべきかもしれない。そんなふうに考える。というか、そういうふうに考えた人類が生き残ってきた。

進化的に形成された感情は、個体の経験を根本から決める。山で野犬に遭ったら、自然と心拍数があがって、息はあがり、寝ぼけていた目はくっきり醒める。意識しなくても身体は臨戦態勢をとるのだ。そして、後ろから狩人がやってきて、犬が狩人にすりよるのを見ると、「ああ、飼い犬だったのか」とほっとする。これがふつうの人間である。

ぼくたちの感情は進化的な感情に規定されている(マジョリティはね、という但し書きがつくのも進化の面白いところ)。

 

つまり、だ。基礎的な感情は統一的なものである。周りの人間と同じような感情を感じる。

感情は主観的で自分だけのものに思われるけれど、じつは、周りの人間も同じように感じているから、客観的なものなのだ。上の例では、ほとんどの人が怖いと感じるだろう。同じように、好きな人と触れあっているときには幸せを感じるし、自分で何かを成し遂げたときには達成感を感じる。

ぼくたちの感情は、この意味で客観的であり、社会化されたものである。

 

感情は個人的なものであるから、共通なものである。

一見矛盾しているけれど、まったく矛盾しない。このむずがゆい感じをそのままに、

続きます。

 

 

付け足し

同じ論理を逆にたどると、知性は主観的なものであることがわかる。たぶん説明はいらないはず。三木さん好きなんだよね