白くま生態観察記

上洛した白いくまもん。観察日記。勝手にコルクラボ

無意識の検閲――純粋な感情

ぼくは人をよく好きになる。

たとえば人がぼくのために何かしてくれたとき。「ありがとー」と感謝の言葉を伝えるけれど、その後ろに(大好き!)と隠していることが多い。

ほかには、派手じゃないけど大事なことをやっている人を見たときとか、がむしゃらに何かに取り組んでいる人を見たとき、落ち込んでるけど再起しようとする人を見たとき。「頑張ってるね」とか「すごい」「そばにいるよ」とか言いながら、その裏では(好きだなー)と思っている。

 

けれど現実では、恥ずかしくて好きだと言葉にできない。

目の前にその人がいるだけで、「好き」と言ったらどう思われるかな、なんか恋愛的な意味をもってしまうな、と思う。まして周りに他の人がいただけで「好き」と言えなくなる。感情を告げるのが恥ずかしい。

こういうのはラインでも同じで、「現実のその人」を意識した瞬間に、ぐぐっとフィルターがかぶさってくる。何考えてるのかわからないと言われるのは、たぶん、フィルターでがんじがらめになっているからだ。

みんなの前で感情をあらわにしている人がうらやましい。そういう人は「好き」を、本来の純粋な「好き」という意味で使っている。そういうキャラクターも好きなのだ。

 

ネットでは、この恥ずかしさが軽減される。

目の前に人間がいないから、いくらでも「好き」と言える。だって誰にも咎められないのだ。自分を縛ってくる圧倒的なフィルターは、ネットの世界では効果が薄い。

なんということだろう! 

ネットのなかでは感情が制限されない。自分のなかの無意識の検閲から解放される!

ネットの世界でなら、心と心でつながれる。現実のその人を知っていても、このブログなら「好き」と言える(いま気づいた!)。素晴らしい。

 

みんな、好きだー。

いままでの「ありがとう」は、ぜんぶ「大好き」に読みかえてください!