福永武彦『愛の試み』再読
このブログでは、福永武彦をもとにして愛を考えてきた。
去年、すでに三冊を取り上げた。どれも拙くて福永さんを読んだことある人にしか伝わらないので、リンクは貼らない。
いくら拙いとはいっても、『愛の試み』を取り上げた回は酷すぎた。本を理解する気がまったく感じられない。脳みそを使って読んでいなかったことが、本文からありありと見てとれる。
今回再読して、彼の世界を捉えた気がする。同時に欠点にも気づいた。
――要約
人間の内なる世界には、孤独や愛がある。
人間は、原理的に孤独である。孤独であるからこそ、孤独を包んでくれる存在を求める。その存在は最初、普遍的な愛をくれる存在である。しかし成長すると、孤独は自分だけの特殊な愛を求めだす。そのとき孤独は特定の個人を渇望する。その渇望は、独占欲や所有欲として表れる。いったい何を所有したいと思うのか。相手そのものである。
さて、自分の孤独と向き合ったとき、孤独は特定の誰かを指し示すと同時に、その誰かも、孤独を抱えた存在であることに気づく。
自分の孤独が求める相手もまた、孤独の存在である。
そのときに転回が起こる。相手そのものを独占したい・所有したいということは、相手の孤独をも所有することである。所有するという意味は、相手の孤独を自分で包みこむことを言う。孤独は原理的なものであるから、誰にも癒やすことはできない。孤独を包みこむということは、孤独を癒やすことではない。相手の孤独を受けとめる決意である。
そこでは、もはや自分の孤独を包んでほしいという渇望はなく、相手の孤独を包みたいという情熱に変わる。愛されたいのではなく、愛したい。その利他的な愛に全身を投企すること、これが愛の試みである。
孤独の渇望から生まれた「他者を所有したい」という気もちは、「他者の孤独を包みこみたい」という愛に変わる。利己的な意識に動機づけられて、純粋な利他性を示すのである。
孤独に動機づけられて、愛は一層に燃え上がる。その愛はもはや情熱と言ったほうが正しい。
しかし情熱に身を委ねることは、愛ではない。人間は、原理的に孤独なのだ。孤独を忘れた瞬間に、愛は出発点を失って弱いものになる。情熱だけがあるからこそ、逆説的に弱くなる。
孤独と愛のバランス。孤独を充実させて強くすればするほど、愛は強くなる。確固とした基盤ができるからである。そうした愛を試みていくことは、同時に自分の孤独を一層充実させていく。相互に愛の試みを行うことこそ、ふたりに調和が生まれる。相互に相手の孤独を包みこむのだ。
※
だいたいのところ、こういう世界観である。福永さんは、ひとつの世界を構築したと思う。レトリックもいいし、すばらしい。
4月のぼくは、この言わば「孤独の相互所有」に向けて、自分の孤独に向き合い、愛を試みようと思っていた。それが愛するということであり、結果的に(結果的に、ということが重要)自分も救われると思っていた。
でも、どうも違う気がするのだ。
それは、たぶん、ぼく自身がいままでの人生で「このひとしかいない」と渇望するような相手をもったことがないからである。福永さんにとって愛は情熱のひとつの表れであるけれど、ぼくにとって愛は情熱の要素をもたない。本やドラマや友人に、情熱的な愛をする人はいるが、ぼくは違う。
福永さんは「孤独をほんとうに見つめていないからだ」と反論するかもしれないが、ここ2年間、自分のなかを見つめつづけてきた結果、特定の個人を渇望するような性質は自分のなかにはない。それはたぶん、ぼく自身のゆがみかもしれない。自分がゆがんでいるのか周りがゆがんでいるのかはわからないけれど、ぼくはそういう人間である。
この疑問は、エーリッヒ・フロム『愛するということ』で完全に解けた。福永さんは、あまりにも孤独を重視しすぎた。それは愛に救いを求めたことの裏返しである。彼は、人間的に成熟していなかった。
1年半にわたった「愛」をめぐる旅は、次回でいったん終わりです。
名言集
「自己の孤独を無視して相手のことばかり考えている人間は、結局は相手の孤独をも無視しているわけである」「真の愛が目覚める場合、そこに起こるのは彼の内部の凝視である」40頁
「彼に必要なものは、他者からの愛によって砂漠を潤すことではなく、砂漠を砂漠として認識しつつ他者への愛の中に自己を投企することである」41頁
「孤独を意識する時に、僕らは必然的に愛を求め、愛によって渇きを潤そうとする。人は愛にあってもなお孤独であるし、愛がある故に一層孤独なこともある。しかし最も恐るべきなのは、愛のない孤独であり、それは一つの砂漠というにすぎぬ」19頁
「自己の孤独を恐れるが故に、相手の孤独によってそれを豊かにし、自己の内部のううは苦を埋めたいと願うのだ」54頁
「愛は他者のためのものであって、決して自己の孤独を埋めるためのものではない」61頁
「愛の効果は、相手の魂を所有したいというこの熱狂と、自己の孤独を認識するこの理知との、その両者に公平に懸かっているのだ。決してその何れかに偏することはない。そして人が自己の孤独に気づく機会が、逆境にあったり、苦しみを感じたり、死を予感したりする悲劇的な瞬間ばかりでなく、愛するというこの積極的な行為の瞬間にもあるというのは、実は大いに悦ぶべきことなのだ。なぜなら、彼は自己の孤独に思いあたるが故に、愛する対象の持つ孤独についても同時に考え及ぶ筈なのだし、自己の傷を癒す前に、まず相手の孤独を癒してやろうと考えることが、愛を非利己的なものに高めて行く筈なのだから」 (「持続」)