白くま生態観察記

上洛した白いくまもん。観察日記。勝手にコルクラボ

「きみが好きだったよ」――人生の転機②

その日の夜になってから、彼女から返信がきた。「そうだね。会おう」ということだった。

 

会うことになったのはいいけれど、そのひとは忙しい期間に入っていて、むりに時間を取るのは悪いなと思った。もとはと言えば、ぼくが悪いのだ。あの夜にぜんぶ片づけてしまえばよかったのに、こうしてラインしている。

臆病なぼくが前面に出てくる。会うと言ったって、具体的に何を話せばいいんだろう。どうやって切りだせばいいんだろう。考えてみると、このひととまじめな話するの始めてかもしれない。女性とふたりで話したことも、数えるほどしかない……

考えれば考えるほど、ますます会うのは難しく思えてきた。でもそういう優柔不断なところが悪い癖なのもわかっている。

けれど、どうしたらいいのかわからなくて、たぶん、直接会うのが怖くて、けっきょく「時間のあるときにしよう」と返してしまった。

 

いま忙しいよね、時間のあるときにしよう。じゃあ今度全体で会うときでいっか。そうしよう。おっけー……

自分が勇気を出さない言いわけはいくらでも考えだせるのに、勇気を出す言いわけはひとつも見つからない。

 

いちど引き延ばしたら勇気は枯渇した。

なんどか顔を会わせる機会もあったけれど、そのたびに「今はほかの用事で手一杯だから」とか「論文のほうが大事だから」とか「周りに人がいるから」とか自分に言いわけをした。なんて自分は臆病なんだと、毎回思った。 

そのまま1ヵ月たって、あの夜のことはなかったことにしようと決めた。いまさら何も言えない。ぼくもいま論文で忙しい。相手も忘れている。酔っぱらった場で言ったことだ。引きずることもない。

忘れようと思い込むほど、想いが沈殿して剥がれなくなる。それを知らないくらいには若かった。

 

あるとき、そのひとに伊藤朱里『名前も呼べない』をお薦めされた。

世界のなかで疎外感を抱えて生きている女性の話だった。明るくて元気なそのひとのイメージからは、まったく想像できない物語だった。疎外されるよりも、世界を自らに引きこんでいくひとだった。

その週の金曜日、全体の集まりで飲むことになった。

会場に行く道すがら、そのひとの横を歩きながら『名前も呼べない』の感想を言った。最後に「きみがこういうの読むなんて意外だった」と付け加えた。

彼女は「わたしね、意外と引きこもったりするんだよ。部屋から一歩もでないのよくあるんだよ」と疲れたふうに笑った。

 

――わたしのこと、見えてないでしょ。

 

ぼくは「えっ、そうなんだ」と言うだけで精いっぱいだった。どうことばを継げばいいのかわからなくて、黙った。こんな表情も見たこともなかった。儚さをまとった彼女は、いつもより何倍も魅力的だった。

そのひとを見ようともしてこなかったことに気づかされた。これまでぜんぶ、自分のなかしか考えてこなかった。好きですなんていう資格は、そもそもなかったじゃないか。ぼくは自分のことだけしか考えてなかった。自分のなかに神格化された「そのひと」像を作り上げて、それしか見つめてこなかった。

どうしようもない自己愛だ。

 

飲み屋に入って、みんなでぺちゃくちゃおしゃべりする。お酒が入って上機嫌になる。

好きなひとの話になった。前の恋人は~とか、いま好きなひとは~とか、そういう話が出て、そのたびに場はワイワイ盛り上がった。みんな他人の恋愛に興味があって、そういう話をできるくらいには仲がよかった。「カレカノいるひとー?」という話が出たとき、そのひとが手を挙げた。ぼくは心のうちを隠そうとして、ビールをぐいっと煽った。

そのひとは、ぼくに「好きなひといるでしょ」と笑いかけてきた。

ぼくは「いるよ」と言った。「だれ?」とつづけてきた彼女に、ぼくは「この場所じゃ言えないな」と力なく笑ってごまかそうとした。

しかし、彼女は

「わたしにだけ教えてよ」

身体を傾けて右耳をつき出してくる。もう逃げられないな、と思った。

 

「きみが好きだった」

 

彼女の耳元でささやいた。うわ、言ってしまった。たぶん、はじめての告白かもしれない……けれど、当の彼女は「えっ、聞こえなかった」とポカンとした顔で言った。こいつ~と思ったけど、「も一回、も一回」と身体を傾けてくる彼女に向かって、もういちど言った。

 

「きみが好きだったよ」

 

彼女は驚いた顔をした。身体を元に戻すと「たしかにみんなのまえで言えないね」とフフと笑った。みんながだれ? だれ? と聞いても、彼女はしゃべらなかった。

なんだか満足して、ぼくはビールを飲んだ。苦さが胸に沁みた。