白くま生態観察記

上洛した白いくまもん。観察日記。勝手にコルクラボ

予感

あとになって思いかえしたら「2018年6-7月は人生の決定的な分岐点だったな」と思いかえす気がする。正体はみえないけれど、ひしひしとした予感を感じる。

 

直接のきっかけは、6月に佐渡島さんに「面白くて、的確」と言われたことで、続いて7月に「すごく好き」と言われたことである。すでに書いたように『プロフェッショナル』で佐渡島さんをみたとき、「このひとを脳内編集者にしよう。このひとに面白いと言わせれば大丈夫だ」と確信に近い予感があった。

あのときと同じ予感をいま感じている。

 

これまでの人生で、この種の予感が外れたことはない。

小学校6年で初めて塾に行ったとき、「勉強ってクソ面白いな」と衝撃を受けた。塾に入ってすべてを吸収した。ひたすら面白かった。いまでも、新しい世界を知って分析するのが大好きだ。

先輩に感情を受けとめてもらったとき、「ああ、ひとりぼっちじゃないんだ。ぼくだけじゃないんだ」と思った。世界に受けいれてもらって、他人と初めて出会った。なんて人間の心は面白いんだと思った。他人と話せるようになった。

愛着障害という言葉を知って、「これまで自分を縛っていたものは、こいつだったのか!」と世界の謎がとけた。生き苦しさの正体がわかったから、対処できるようになった。

佐渡島さんと出会って、の話は書いたとおり。

親友を亡くして絶望の淵にいたとき、周りの人たちから愛をもらった。「ああ、ぼくは、跳べる。こんなところじゃ終わらない」と直観した。この話はこれから書く。

 

ぜんぶ人生の転換期だった。

いままでの世界観がぶちこわされて、新しい世界がぼくを待っている。そういうとき、例外なく確信に近い予感が襲ってきた。すこし気持ち悪くて、でも心地よい、自分が大きく揺さぶられる感覚。

自分じゃない自分が、しかしどこまでも自分らしい自分が、ぶ厚い殻を破って出てくる。停滞したあとに、絶対に起きる確変の時期だ。

自分が次のステージに移ったことを、言葉で理解するよりも早く、感覚が教えてくれる。これまでの延長線で考えていてはいけない。まっすぐに自分の感覚に従って、ひたすら目の前のことをこなせばいい。感覚が正義で、理屈は間違っている。どんなに変だと思っても、なんとなく正解だと思ったほうに身をゆだねる。心を前面に出して、他人のことを考えずに、やりたいことをやる。

結果的にこっちのほうが正しい。

 

いままでのぼくだったら、「人生の転機」を書いてない。ぼく自身の闇を吐き出しているし、登場人物は大学時代にそばにいてくれた人である。去年から吐き出すべきだと思っていたけれど、ぜんぜん吐き出せなかった。佐渡島さんに「面白い」と言ってもらったから、なぜか「いまなら吐きだせる。いましかない」と思った。6月の文章は、それまでと何かが違う。わかんないけど、何かが違う。

そうしたら、また佐渡島さんが「すごく好き」と言ってくれた。コルクラボのみんなと出会えた。

確実にいま、ぼく自身に何かが起こっている。何が起きているかはわからないけれど、数年たったらはっきりするはずだ。

だからよくわからないけど、noteをやる。ほとんど本名に近いペンネームを作る。遠目だけど写真も出す。よくわかんないんだけど、恥ずかしいけど、なんとなく正しい気がする。心の声がやれ! と言ってくる。

人生にはこういうときがある。逃したら最後だ。二度とやってこない。

 

自分の見たい世界を見られるのは、自分しかいない。

 

ぼくの親友はやりたいことがあったのに、何の因果か亡くなってしまった。ほんとうに偶然の差だ。ぼくもいつ死ぬかわからない。

 

死ぬまえに世界に傷跡を残したい。

 

「人生の転機」をこれから書く。今週で仕上げる。ぜんぶさらけだす。グチャグチャしていてもいい。わけわからなくてもいい。ぜんぶさらけださないと、先に進む資格は得られない。

「人生の転機」を書きながら、ぼくはめちゃくちゃ泣いている。ありがとうと言いながら、さようならと言って、大好きですと言って、顔をぐちょぐちょにしながら書いている。

泣いてしまうのは、自分の心を外側に写し取る人生初の体験だからだ。できる人たちはそんなの意識せずに、心と世界をつなげている。文章を使わなくてもできる。でもぼくは、泣いて傷ついて嫌だと言って、死にそうになって吐き出してようやく心と文章がつながる。心と文章を阻んでいる大きな壁をいま壊せないなら、たぶんずっと壊せない。

 

 

この文章も、最初は借りものの言葉だけれど、後半は自分のなかのよくわからない何かが顔を出している。優等生の顔をしている文章なんて、クソくらえだ。何だかわかんないけど、とにかくスッゴイ文章を書きたい。まったくうまくないけど、後半部のほうが好きだ。後半部に現れた何かと、文章をつなげることができたとき、ぼくは次の領域にいる。

こういうことを死ぬほどやって、読んでくれている人を失望させて、「あいつヘタクソになったな」と思われて、読む人がいなくなったときに、やっと、やりたいことができるようになってる。

 

だから、ごめんなさい。ここから数ヵ月は、質の保証ができません。いままでの文章でOKだと思っていた人たちにとって、違和感しか感じない文章になります。

でもこのままじゃだめだ。ただ「それなりにいい」だけの文章になってしまう。ぜんぜんよくないのに。ヘタクソなのに。失敗しまくって、自分のなかで暴れているものに懸命に形を与えようとしないといけない。

そのかわり、1年後は違う次元にいることを約束します。違う次元にいなかったら、諦めるときだ。

noteには、こういうワケわからないものは載せないと思います。ブログだからできるんだ。 

 

夢野久作ドグラ・マグラ』をお薦めされた。

何だかよくわかんないけど、とにかくすごくて、涙が出てきた。くっそ。こういうのを書きたい。