駄菓子:蒲焼くん
日曜日だというのに、その動物園には僕と僕の友人と見知らぬ女の子しかいなかった。
僕と僕の友人はずっとゴリラとにらみ合っていた。ゴリラが突進してくるのを待ち受けるようにガラスに額を打ちつけたり、ゴリラが胸をどかどか叩くのにあわせてこちらも胸を叩いたり、ゴリラと一緒に吠えたり、アホウなことをしていた。
そのあいだ、女の子はずっと蒲焼くんを食べつづけていた。包装をぺりっと剥がして、なかの薄い板をもぐもぐと食べる。
もぐもぐ。
もぐもぐ。
手元の蒲焼君がなくなってしまうと、彼女はバッグのなかから新しい蒲焼くんを取りだして、ふたたび食べ始めた。ぺりっ。
もぐもぐ。
もぐもぐ。
もちろん、そんな音は聞こえたわけではないのだけれど、なんとなくそんな音が聞こえてきそうな振る舞いだった。ぺりっ。
もぐもぐ。
もぐもぐ。
彼女のバッグのなかには、いくらでも蒲焼くんがしまってあるようで、つぎからつぎへと蒲焼くんが取りだされる。
動物園の警備員も、あきらかにその光景に動揺していた。彼女に声をかけようとしたみたいだけれど、どう言えばいいのか彼にはまるでわからなかったのだろう。動物園のなかで蒲焼くんを食べるのが禁止されているわけでもないし、動物に蒲焼くんをあげているわけでもない。包装紙だけが彼女の右側にたまっているけれど、持ち帰れば問題ない。
もぐもぐ。
もぐもぐ。
僕と僕の友人はゴリラと張りあうのをやめて、蒲焼くんを食べる彼女を見つめた。
彼女は素敵な白いワンピースに身を包み、その白さに負けないくらい綺麗な肌をしていた。髪はさらっとしたストレートのロングで、紅色のハイヒールを履いている。頭のてっぺんから足のさきまで、素晴らしく金がかかっている。すくなくとも休日の動物園で、たったひとりで蒲焼くんを食べつづけているタイプではない。
「さっきから何をしているんですか」僕の友人が彼女に声をかけた。彼は諦めの悪いガール・ハンターとして京都の岡崎では名を知られた人物である。
彼女は馬鹿にしたような視線を僕らに向けた。「何してるって(もぐもぐ)、蒲焼くんを(もぐもぐ)、食べているのよ」。見たらわかるでしょと言わんばかりだった。
「たのしいですか」
「そんなの(もぐもぐ)、私の問題でしょ」
「でも、世の中にはもっとたのしいことがありますよ」
「たとえば」もぐもぐ。
「たとえば、オオサンショウオの蒲焼を食べるとか」
「ふうん」と彼女は言った。「で、どこにオオサンショウオがいるの」
「それが問題だ」と僕の友人は言った。「鴨川の一角に、とてもいいオオサンショウオの巣があるんだ。行ってみない」
「動きたくないのよ」彼女はワンピースの裾をあげて、足もとのヒールを強調する。
「残念だなぁ。すぐそこの穴場なんだけど」
「ほんとう?」
「もちろん。黒い川底はぜんぶオオサンショウオさ」
「でもそれをどうやって蒲焼にするの」
「バーベキューのコンロで一発さ。ジュージュー焼いて、タレをつければいいんだ」
「食べてもいいの」
「生きてるものは食べるためにあるんだからね、当然さ。オオサンショウオも、食べてもらって喜ぶだろうよ」
彼女と僕の友人は、オオサンショウオの蒲焼を求めて鴨川のほうへ歩いていった。あとには警備員と僕だけが残された。
「いろんな口説き方があるんですねぇ」警備員は感心したように言った。「オオサンショウオの蒲焼だって。獲っちゃいけないのは知ってるだろうに」
「まあね」僕は言った。
彼女がいた場所には、トランプを組み上げて作った城みたいに、蒲焼くんの包装紙が積み上げられていた。ぼくはそれをごそっと掴みあげると、警備員に「ゴミ箱は」と訊いた。
警備員は向こうを指指しながら「オオサンショウオねぇ」とため息をついた。
註:村上春樹さんの「マッチ」『夢で会いましょう』をもとにしています。