すべてを捨てたい衝動
映画『セッション』は、好きな映画である。主人公が交通事故に遭う場面を選択したのは残念だけれど、全体として好きな映画だ。
その一場面をなぜか思いだした。
付き合っている彼女に、主人公がやつあたりをする場面である。ドラマーを目指している主人公は、いくら練習しても明らかな技術の向上が見えない日々に疲れていた。ひたすら練習するしかないと思って、寝る間も惜しんで練習した。
寝る時間だけじゃなくて、彼女と一緒にいる時間も無駄じゃないかと思いはじめた。練習時間が減るし、自分の決意も揺らぎそうになる。彼女と一緒にいないほうがいいのでは。
そう思って彼は、「ぼくには練習する時間が必要だ。きみと会っても、頭のなかはドラムのことでいっぱい。きみは不満に思うようになるだろう。そうして怒りだす。けれどぼくは、ドラムをやめる気はない。別れたほうがいい。ぼくは偉大な音楽家になりたいんだ」と喫茶店で彼女に告げる。
彼女は「私が、あなたを邪魔するってこと」と訊き返す。
彼は「そうだ」と言う。
彼女は「何様のつもりなの。別れましょう」と冷たく言い放ち、さっと立って喫茶店を出ていく。彼はその姿を見送る。
そして彼は、氷水に血まみれの手をつっこんで感覚を麻痺させながら、ドラムにひたすら向き合う……
※
このシーンは、ほんとうに好きだ。彼は自分自身へのいらだちを女性に向ける。いらだちをコントロールしようとするから、傲岸な態度になる。反応を決めつけられた女性は静かに怒って、二人は別れる。
何者かになろうと決意したとき、すべてを捨てて練習しなければいけないときがある。ほかのものすべてが邪魔に思える。食事も睡眠も人間関係も、ほんとうにぜんぶだ。その対象と不純物なしに向かい合いたい。ヒリヒリした時間を過ごしたい。没頭したい。ここで壁を破れなければ自分は終わりだ。すべてを捧げないとたどり着けない。どんなに嫌でも向き合いつづけなければいけない。娯楽などいらない。自分を罰して、ただひたすらに練習しろ。そうしないと見えない世界がある。その世界を見たい。
ぼくは、これを必要な過程だと思っている。
どんなときも他人に優しく。感謝を忘れずに。いらだちを他人に向けない。
そういう正論がまったく通用しない瞬間がある。狂ったようにまっすぐに、ソレに向き合わないと次のステージにいけない。いまやらないと、一生乗り越えられない。たった一瞬でもいいから、すべてを捨てて、その世界を体感しないといけない。
自分へのいらだち。世界へのいらだち。やつあたりでも何でも、周りにぜんぶ吐き出して、たったひとり孤独に練習する時間が必要なのだ。
これを描いた監督が好きだ。
自分は間違っていたと思い知ったときには、彼女には既に別の彼氏がいる。代償を払って、ドラマーになろうとする。
さいきんのぼくは、この状態にある。だから、何となく思いだした。
いま物語を書けなければ、たぶん一生書けない。でも、うまく書けない。自分にいらだつ。
なのに、最近知りあった人たちは優しい。こんなんじゃダメなのに、優しい言葉をかけてくる。優しくされてはダメなのだ。もっと厳しく的確な言葉でののしってほしい。
ワガママなこともわかっている。お子ちゃまなこともわかっている。
でも、人生にはそういう瞬間があって、
いま、さいきんの人間関係を煩わしく思っている。
間違っているのはわかっている。けれど、優しい言葉をかけあう人たちは、茶番に見えてしまう。茶番に巻き込まないでくれと、叫びたくなる。
発狂しそうになっている。