白くま生態観察記

上洛した白いくまもん。観察日記。勝手にコルクラボ

もう一度だけ語ろうと思う。

飼い犬が死んでいく夢を見た。正確にいうと、殺した夢だ。

 

ぐったりと横たわっているのを見かねて抱き上げようとした。

しかし身体の芯に力が入っておらず、元気なときみたいにすんなり腕のなかに収まらない。身体が変にねじれるのを嫌がって、脚をバタバタさせギャーと鳴く。

ぼくは「ごめん」と言って、もとのまま、横たわらせる。

いらないことに体力を使わせて、死を早めたなと思った。人間の自己満足で、数分間は確実に死が近づいた。14年間一緒に過ごした犬の、最後の時間を身勝手に奪った。

そこまで考えて、気づくと涙が出ていた。また夜中に目を覚ました。

 

2週間前の金曜日、2回続けて頭をぶつけた。鈍痛が続いて「明日の朝は意識があるのかな」と思いながら、眠れない夜を過ごした。朝起きると、「生きてた」とほっとした。これを数日続けた。気分が悪いまま月曜の講義に出ると、手が震える感覚があって、さらには手足から血の気が引いていった。「やばいかも」と思いつめて、脳神経外科に行った。「ここで死ぬのか」と、ただただ怖い。

結果として何もなかった。自分でもわかっていたけれど、危なくないことを医学的に裏づけてほしかった。すべてフラッシュバックのせいだ。

 

TEDでemotional first aidの話があったのを思いだした。反芻思考でどつぼにはまっているとき、2分間だけでいいから他のことに集中する。2分たつと、事前の状態を相対化できて少し楽に対応できるというものだ。

知識はあっても、役にたたない。

 

京都にくるとき、いろいろなものを出身地に置いてきた。

目が見えなくなって、耳も遠く、鼻も悪くなってきた14歳の犬。毛艶も数年前とは比べものにならない。去年は2回体調を崩した。犬が死んだときの手続きを調べたりした。

詳しくは書かないけれど、がんの手術をして、薬の服用が続いている祖父母。

ぼくにとっての2年間と、そういう犬や人にとっての2年間は、決定的に違う。

つぎ会うときには、めっきり弱った姿と対面しなければいけない。いや、生きているかどうかさえわからない。

ありふれている話だけれど、自分のこととなると、違う重みとして迫ってくる。 

 

3月には、ここに書いたほかにも、じつは昔お世話になった近所のおじさんが死んだ。

直接のつながりがない人でも、死んだ報告を受けたのが複数ある。

いままで見ないようにしてきただけで、周りには死が溢れている。昔からわかってはいたけれど、たったひとりの死で、世界の見えかたが変わった。

 

 

刀をふって右腕が筋肉痛だ。痛みが、いつにまして心地よい。生きている、という感じがする。