白くま生態観察記

上洛した白いくまもん。観察日記。勝手にコルクラボ

トンデモ本とぼくと。それから何か

あまり明かしたくないけれど、同じような経験をしたひとは結構いる気がするので、思いきって公開する。たいていのひとは、どこかの段階で気づいて方針転換しているはずだ。そう願いたい。人生の暗部である。

 

大学1年の前半、はじめて孫崎亨さんの本を読んで、はまってしまった。

「事実をもとに議論をすべきだ」といって、孫崎さんは実際に数多くの事例をあげて、通説を論破しているように思えた。歴史や世間のことをなにも知らないことがコンプレックスだったぼくにとって、「なんて多くの知識をもっているのだろう! たしかにこんな話は聞いたことがない! 通説が無視しているのはおかしい! この指摘にちゃんと反応しろ!」などと本を読みながら勝手に世間に対して憤慨し、内容をtwitterでシェアしていた。孫崎さんもフォローした。

孫崎さんのいう事実に耽溺していたぼくは、「孫崎氏はトンデモ」という言説をみてはいたが、「そんなの、事実をもとに議論できないから、そうやってレッテル貼りをして逃げているんだ」とレッテル貼りをして無視していた。ネットだけでなく、友人にも直接孫崎さんの本をお薦めした記憶がある。「孫崎さんの本は勉強になる。全体像をつかむのにいいかな」「孫崎さんの本、読んだ?」

 

いまから思い返すと、おそろしい所業である。恥ずかしい。なかったことにしたい。あのときの自分をぶん殴って説教したい。

こんなことをしていないだけで、ぼくの後輩たちはすばらしい。そう思えるほどである。

 

こういうことを言っているとき、周りはどう対処していたのだろうと思う。たぶん「あの人の本なんか読んでいるのか……いやまあ読んだことはないけど、トンデモっていう人で有名じゃんか。読んでないからいわないけど、なんかなぁ」。たぶんこんな感じだったろう。困った表情を浮かべて、適当に流して聞いていたはずだ。

みんな優しかった。そういう時期もあるよね、と思っていたのかもしれない。いま思えば、大学生にもなって、ああいう本にはまってしまうのは知の没落としか思えない。最高学府にいる資格が問われかねない。一昔前なら、きっと大学に行けないくらいの知性であろう。

 

そんなぼくではあったけれど、通説と孫崎説の世界観が違いすぎて、どこか戸惑っていたのも確かだった。「孫崎説は事実が明快に書かれていて、なんでこれが通説じゃないんだろ。これ読めば普通に理解できるじゃないか。みんなが読めば、こっちが通説にならざるをえないじゃないか」。

この戸惑いは、「歴史学の波及は遅い!」という通説と結びついて解消されてしまったのが運の尽きだった。数ヵ月間、孫崎説に傾倒することになった。歴史学とは何か、みたいなところから根本的に理解できていなかった。

 

 

そんなぼくが、どのように孫崎説を否定するにいたったか。

わりあい単純である。研究コミュニティをtwitterでフォローしはじめたのだ。研究者の権威と、孫崎説への傾倒とが、自分のなかでバトルするようになった。「研究者はアカデミックで事実に基づいた言説しかしないはずである。孫崎さんも事実に基づいた言説しかしないはずである。しかし両者の主張は、根本から異なる。この矛盾はどう説明できるんだ……」。ダブルバインドにおちいった。

そんなとき、フォローしていた誰かが、どこかの雑誌記事をRTしてくれた。「孫崎さんの言説は、事実を無視している。反論があるならば、あなたがいつもおっしゃっているように正々堂々と反論してくれ」という内容だった。とても明確な論旨で、議論の進めかたに飛躍はなく説得的だった。論点は、日中国交正常化に向けた両国首脳の会談だった。ぼくはtwitterで「孫崎さんは、事実が大事というなら、これに反論すべき。主張の立脚点に疑義があるぞ」みたいなことをつぶやいた。大型書店で立ち読みして、その場でツイートしたのを、ありありと覚えている。

後日、記事について、孫崎さんは「相手は新聞記者という後ろ盾をもっている。議論する価値はない。新聞社を離れて、ひとりの人間として議論するなら、反論する準備がある」のようなことをつぶやいた。これを見た瞬間、ぼくは孫崎さんのフォローを外した。本も捨てた。

 

さらにあとになって、このブログ記事の存在を知った。「過剰に大きな星条旗孫崎享『戦後史の正体』を読む」http://d.hatena.ne.jp/Donoso/20120811/1344673761

もっと早くに知れていたら……と後悔ばかりだった。

 

 

トンデモ本は巷に溢れている。出版社は何でこんな本を出すんだ……という気もちにもなる。上のブログをみれば、そういう本は議論の構造がまったく同じだということに気づくはずだ。内容の正誤以前に、議論の仕方が間違っている。そのことをはっきりと認識する必要がある。

 

しかし上のようなブログは、当該分野について、十分な知識をもっているひとでなければ書けない。あくまでトンデモ本が挙げる事実は、事実のうちの一部を恣意的に選択したものであると認識できる必要がある。そのうえで議論の仕方を批判する必要がある。

もっと大きな問題がある。十分な知識をもったひとが、読むに堪えない本を読むこと。さらにその本のキズについて、素人にもわかるように伝えること。この二点である。

わかっているひとにとって、トンデモ本を読んで、ちゃんとした批判を書くというのは、苦痛である。それをするインセンティブがない。ボランティアだ。しかし誰かがやらないと、トンデモ本に傾倒したまま人生を送るひとが出てきてしまう。ふつうは友人など、近しいひとがやるのだろう。ネットで、無償でしてくれるひとには、ほんとうに感謝が尽きない。

 

トンデモ本トンデモ本であって、それを読んでいるひとがいたら「トンデモ本だよ」と教えてあげてほしい。それだけでいい。むかしのぼくなら、最初は「この事実は知ってる? この事実は? 知らないのになんでトンデモと言えるの?」と本の内容をもとにトンデモではないと主張するかもしれない。ほんとうに面倒だと思う。しみじみ友達になりたくない。

それでも、家に帰って「友人のひとりがトンデモと言っていたな……あいつが何の根拠もなしにトンデモなんて言うわけないな」と気づき、自分で調べ出すはずである。本の矛盾にも目が行くようになるかもしれない。研究書を読んで、自分で判断したくなるかもしれない。

本を読んでトンデモになるひとは、本を読んでトンデモから抜け出せる(はずだと信じたい)。

 

いままで読んできた本や触れてきた世界は、各人によって違う。そう考えると、その分野の先達は、新しく本を読み始めた人に、「あの本は読むな。この本は必読だ。わからなかったら聞いてくれ」というのは、積極的にやったほうがいいと思う。ましてやトンデモを読んでいることが明らかなのに、何も言わないで見ているのはひどいと思う。その分野のすそ野が汚染されていくのを、座して見逃す行為だ。自分の目の届く範囲ではしたくない。

たったひとこと、外側から「トンデモだよ」といってあげるだけでいい。そのあとは、当人の責任である。