映画『普通の人々』
ロバート・レッドフォード『普通の人々』(1980年)
ひさしぶりに泣いた。大泣きだった。鼻がグシュグシュになった。『素晴らしき哉、人生』(1946年)以来の号泣かもしれない。
人間の心を浮かび上がらせていく丁寧な描写に驚く。すばらしい。
この映画を見ながら嗚咽をもらしてしまう人を、ぼくは信頼する。人間に対する温かい目線を感じるからだ。人間の弱さと強さ。人間同士の孤独と愛。どうしようもないけれど、ぜんぶひっくるめてぼくらは人間なんだと。いま見てピンと来ない人も、これを嫌いにならずに、ぜひ10年後にもう一回だけ見てほしい。
ぼくは、『普通の人々』という題名に監督の温もりを読み取る。たしかにああいう事故が起こるのは、普通じゃないかもしれない。けれど、人間が生きて恋をして家庭を築いて仕事をしていれば、かならず同じような状況に直面する。
そのとき、家族が問題になるのではない。ひとが問題になる。すべてを自分の責任だと感じるひともいるだろう。残った人間をまるごと受けとめようとして、非のない人間を演じようとするひともいるだろう。見たくないものはなかったことにして、過剰に自己防衛的になるひともいるだろう。それぞれに自分の問題に向き合っていかないといけない。ぼくらと同じ普通の人々なのだ。普通の家族ではなく普通の人々という題名にした意味だ。
そういうときの人間の覚悟と強さを、ぼくは信じている。愛していると言ったほうが正しいかもしれない。もちろん、立ち向かえない人も描いているからこそ、『普通の人々』なのだけれど。
ぼくは人間を信じたい。母親も、いつか救われるといいな。
【構成・あらすじ】
夫・妻・長男・次男の4人家族。しかし、長男はヨット事故で死んでいる。
次男は「事故は自分の責任だ」と思い詰めて、自殺未遂をして入院していた。精神に過大な負担がかかって、感情を感じられない状態だった。カウンセリングに行くことを勧められる。
父親は、非のない夫・非のない父を演じようとした。自殺を試みるまでに追い込まれていた息子を、見ていなかったことを反省していたからだ。同時に、長男をとくに愛していた妻を気づかって、できるだけ妻にもやさしくしていた。
母親は、死をなかったとこにして普通にすばらしい家族を演じようとしていた。愛していた長男が死に、さらに次男も自殺未遂をしたことで、世間に顔向けできない家族になってしまったことを怖れた。退院したばかりの次男に愛情を注げず、次男ばかりを見る夫にも不満を感じていた。
この3人を軸に物語が進む。
次男はカウンセリングや水泳部からの退部、好きな女の子とのデートを通して、生命力を取り戻していく。最初は憔悴しきって世界におびえていたけれど、怒りをあらわせるようになり、だんだんと自分を取り戻していく。回復してきたときに、ある友人の自殺で窮地に追い込まれる(友人も入院していたけれど、退院してからは弱い自分を偽って強がっていた。心が耐えきれなかった)。次男は信頼できる人に助けを求めて、その人の助けを借りて、長男の事故にほんとうに向き合う。直面したくない記憶に向きあって、それを受容することで、彼は変わる。自分のことで精いっぱいだったことを認識して謝る。もういちど父と母を愛せるようになる。
父親もカウンセリングに行く。家族の問題を話し自分のことを話して、気づく。自分は、見たくないものから目を背けて、問題に直面しようとしてこなかった。非のない親になろうと思っていただけだった。自分の妻が長男の死を受けとめられず、家族への愛を失っていることに気づきたくなかったのだと。父は変わろうと決意する。
母親は、夫から「長男の死を受けとめよう。なかったことにせずに」という話をいくども受ける。けれど、いまさら話をむしかえさないでよ、と断る。変わりたくない。愛していた長男の死をなかったことにして、これからも生きたい。過剰に自己防衛的になってしまった。変われない。
最後、父は「妻の愛情を感じられない。距離を置こう」と言う。
母親が出ていったことに気づいた次男は、父に言う。「ぼくのせいだよね。ごめんなさい」
父は怒る。「なんでも自分のせいにするな。誰のせいでもない。結果としてこうなっただけだ」
次男は、父に怒られたことに感謝する。父親が感情をぶつけてくれたのは、長男の死以来だったのだ。