心とまじない
ハリーポッター・シリーズで、大きな謎があった。
なぜ「エクスペリアームス(武装解除)」の呪文は、さまざまな効果をもつのか。
あるときは相手の杖だけを吹き飛ばしたり、あるときは相手の杖を術者のほうに飛んでこさせたり、またあるときは相手ごと吹き飛ばしたり。どうもおかしい。こんなに呪文の幅があるのは矛盾している。
しかし、ローリングさんはかなり緻密に物語全体を設計している。どれだけの伏線が張りめぐらせているのか、わからないくらいである。だから、こんなあからさまなミスをするはずがない。
この矛盾をどう説明したらいいのか、ずっと気になっていた。わからなかった。
簡単なことだった。
呪文は、正しい発音で正しく杖を振れば、機械的な効果が出力される回路ではない。
呪文は、術者の心のイメージを外側に投射する手がかりなのだ。だから、術者の心がどうイメージするかで、まじないの最終結果が異なる。
たとえば第2巻。決闘クラブでスネイプがロックハートを吹き飛ばした場面。スネイプは恨みをそのままぶつけた。第3巻。叫びの屋敷でスネイプがルーピンの杖を奪った場面。外にディメンターがいるから、彼らに復讐をまかせようとした。同じ場面で、ハリーたちがスネイプをふっとばしたとき。同時にまじないがかかったから、いきおい余ってふっとばした。
もっと後の巻で、無言呪文が出てくる。まさにイメージの重要性を言っている。声に出さなくても、杖を派手に振らなくても、イメージすればまじないがかかる。心を、外側に現出させることができる。
魔法というものの神髄に触れた。心こそが魔法の源泉であり帰結なのだ。
またひとつ謎がある。なぜダンブルドアは、ニワトコの杖をもつグリンデルヴァルドに、決闘で勝利することができたのか。この杖は、最強の杖として知られる。
これも結局同じことだ。魔法の決闘は、上のレベルになればなるほど、心と心の勝負になる。ニワトコの杖は、触媒となって心を増幅させるけれど、もとの心が弱ければ自ずと限界が来る。その限界をダンブルドアの心は上回ったのである。
いくらでも謎は出てくる。第3巻で、ハリーが最後にパトローナスを出せたのはなぜか。
名付け親がいたんだ。父の親友だったブラックと過ごせるんだ。という幸せがあったから? 違う。それなら、時間遡行しなくてもパトローナスを出せた。ブラックを守れた。
結論は、心にある。湖畔で、ハリーは父親を見た。父親が自分を救ってくれるのを体感した。父親の愛が絶望から守ってくれた。ぼくは、愛されていたんだ!
自分は愛されていたという気づき。
これだけがハリーに自信を与え、パトローナスを出させた。
これを小さなことだと思える人は、とても幸運な人である。なぜなら、基本的に愛に包まれてきた人だから。ハリーは違う。幼いころに親は死んで、育ての親からずっと虐待を受けていた。こんな人間が、愛を信じられるわけがない。「きみは愛されていたんだよ」と言われても、心の底で「そんなの嘘だ。死んだ人の気もちなんかわかるはずがないじゃないか」と思ってしまう。学校に入って愛を向けられても、信じられるわけがない。根源的に、愛が欠けている。
ルーピン先生から、パトローナスの呪文を教えてもらったとき、ハリーはことごとく失敗する。それは呪文自体の要求が難しかったから? 違う。ハリーは愛されていた実感がなかったから、愛を強烈に想像することができなかった。だから失敗した。根源的な幸せは、かなりの程度、愛されているという実感に支えられる。
でもハリーは、母親の愛が自分を守ったという知識は得ていた。だから最後は、ほんとうに愛されていたんだという実感をえることだけでよかった。
愛の欠落は、ディメンターがうじゃうじゃいて絶望しか感じられないとき、父親の愛(パトローナス)に包まれて、初めて埋まった。ハリーの根っこの部分が温まったのだ。
パトローナスの呪文は、自分のなかのもっとも幸福な体験を強烈に想起して、全身を満たすことで成り立つ。つまり自分で、自分自身に対して無条件で全肯定の愛のまじないをかけているんだ
自分自身へのまじないが成功したなら、不安があるわけはない。ディメンターがどれだけたくさんいても、できるものはできる。ハリーが初めて成功したとき、「できることがわかっていた」と言う理由だ。
だって、愛されていたんだ。その幸福に身をひたせばいいんだ。そうすれば、自然とパトローナスは心から出てきて、現実の悪を追い払ってくれる。
パトローナスは、自分に愛のまじないをかける呪文だった。その心を外側に出現させる呪文なのだ。
こう考えていくと、最初に戻る。
リリーはなぜ、死の呪文を跳ねかえすまじないを、ハリーにかけられたのか。この問いは、杖を使わずに、という条件が重要である。
ここまでの話で、呪文や杖は心を増幅して外側に投射する回路である、という説明をした。もうほとんど回答は出ているし、そもそも原作で説明されている。その裏側の論理を、あきらかにしているだけのことである。
生まれたばかりの我が子に対する愛は、それだけで、絶対的に強い。杖を使わなくても、呪文を使わなくても、ただ愛するという行為だけで、悪いものに侵されないまじないをかけられるのだ。
無条件の愛を、リリーはハリーに注いで、満たした。
「殺す心」と「守って願って祈る心」は正反対で相容れないから、死の呪文は跳ね返った。
無条件の愛は、杖を媒介させなくても、それだけで、絶対的に強い。
そして、親から与えられた無条件の愛からは、大人になるとき、離れなくてはいけない。
「自立して自律してね」という祈りも含んだ愛だから。その祈りは、けっして相手を見捨てるものではなく、相手を愛しているからこそ愛を継続させない決意なのである。
自分を愛で満たすまじないが、パトローナスである。
誰かを愛で満たすまじないは、愛そのものなのだ。
第3巻で愛を信じられたハリーは、だからこそ第4巻で愛を試みるのだ。
この構成が美しい。