映画『風立ちぬ』
宮崎駿さんの『風立ちぬ』に、ひとつだけ許せないシーンがあった。
結核の菜穂子さんの横で、二郎がタバコを吸うシーンである。
結核を患って大変な菜穂子さんと同じ部屋で、タバコを吸うとは何事か! と思った。ただでさえ肺が弱っているのに、追い打ちをかけたら死期が早まってしまうじゃないか。いくら菜穂子さんが「ここで吸って」と言っても、身を案じるなら我慢すべきだ! 何をやっているんだ、と憤っていた。
いま思うとあまりに身勝手な感想だった。赤面するほど恥ずかしい。
菜穂子さんは、この人になら傷つけられてもいい、むしろ傷つけられてこそ生の実感を得られると考えていたんじゃないかと思う。
菜穂子さんは結核が治らないことを知って、二郎さんと一緒に暮らす時間を何よりも大事にしていた。病院から抜け出してまで二郎さんのそばで過ごしたかった。妻として、女として、ひとりの人間として二郎さんを愛していたから、自分が生きた痕跡をできるだけたくさん彼のなかに残したかった。病気で身体が思うようにならないなか、それだけが菜穂子さんの望みだった。
「お仕事しているときの二郎さんの顔を見ているのが好きなの」
そんな菜穂子さんにとって、仕事をしている二郎さんを見るのは、このうえなく幸せなことだった。
――彼が「タバコを吸ってもいい」って聞くのは、私の身体を心配してのこと。もし私が元気だったら、そんなこと聞かずに吸っていたでしょう。私が病気じゃなかったら……
――二郎さんには、病気の私じゃなくて、元気な私の記憶を残したい。普通にしてほしい。その姿を、私も目に焼きつけたい。
だから菜穂子さんは、外で吸うよという二郎さんに「ダメ。ここで吸って」と懇願する。手を離さないまま、すぐ横で吸ってもらいたかった。二郎さんがタバコを吸いながら、仕事をしている横顔を眺めたかった。あなたを、全身で感じたかった。
私が元気ならずっと見ていたであろう光景を、この目に焼きつけたかった。
菜穂子さんの生命は、このとき最高に輝いていただろう。タバコの煙は菜穂子さんの肺に沁みただろうけど、だからこそ一層命を感じた。胸にじんわりと痛みを感じながら、しかしそれは、自分のもっとも愛する人がくれた痛みなのだ。忌々しい結核の痛みではない。
いま私が生きていて、二郎さんのそばにいるから感じる痛みなのだ。
このとき胸の痛みは、最上の幸せへと昇華する。
この幸せを胸に、菜穂子さんは山に帰る。
「美しいところだけ、好きなひとに見てもらったのね」