頑張らない勇気
ぼくの周りの人たちは、普通の人よりも優秀で、頑張り屋さんで、気配りも効いて、自分でできることは自分でやって、他人に迷惑をかけようとしない。
振られた仕事はちゃんとこなすことはもちろん、周りの人が困ってたらヘルプに入って、「助けあうのが友だちでしょ」と言う。ニコニコしながら他人のカバーをする。
そういうことを続けていくうちに、周りの人は頼るのに慣れてしまって、その人に仕事が集中していく。優秀だから、仕事が積まれても頑張ればできてしまう。周りの人は、その姿を見て、ますます「この人は頼れる人だ」と思う。仕事が集中してしまうスパイラルに陥る。
――周りの人がやるよりも、私がやったほうが早いしちゃんとできるから。
――私を頼ってくれてるんだから。
――自分でできることは、自分でやろう。
ぼくは、こういう人たちがたまらなく好きだ。自分のことは自分でやって、周囲の人が困っていれば、それを察してすぐ助ける。ちゃんと自立・自律して、周りも助ける素晴らしい人間だ。とてもいい人じゃないか。
だからこそ寄り添いたいと思う。
「ひとりで頑張らなくていいんだよ」
「つらいときは、つらいって言っていいんだよ」
「周りの人に迷惑かけていいんだよ。周りの人は頼られたいんだ」
そういう人たちに、こんなふうに声をかけていた。しかしなんというか、響いている気がしなかった。それはたぶん、そういう人たちも心の底では理解していたからだろう。「ありがとう。でもね、現実が許さないんだ」とか、そんなところだ。
だからぼくは、作戦を変えた。
1.物語の力を借りること。
2.上の言葉を、プラスのイメージで覆うこと。
1.やまもとりえ「本当の「頑張らない育児」」https://conobie.jp/article/11462みたいな作品を積極的に呟くようにした。
最近は、頑張ってしまう人を救う漫画がたくさん出てきた。とくにネットで、やさしい漫画が増えてきた。そういうストーリーをたくさん呟くようにしている。
2.「頑張らないのも勇気だよ」と言うことにした。
そういう人たちにとって、頑張ることは日常茶飯事だから、とても簡単に頑張れてしまう。頑張っているほうが楽なのだ。
でもね、頑張らないで、周りの人に頼ることは難しい。100%を出したいのに、自分がズルをしているような気になってしまう。そこをぐっとこらえて、あえて頑張らない。自分を守って、周りを頼って、「疲れたから今日は80%にしよう」とコントロールする。そうして、いざというときに120%で無理できる。大事なことだ。
だから「うまく力を抜く勇気が必要なんだよ」と伝えている。言っていることは変わらないけど、勇気だと思えば実行しやすい。
あなたが普段頑張っているのは見えているから、周りの人もわかってくれる。周りの人も、あなたが頼ってくれると嬉しい。隣に立てたような気がするからね。
迷惑なんかじゃないし、自分の弱さをさらけ出すことでもない。自分を少しいたわって、周りのひとをハッピーにすることなんだよ。
そして、周りの人を頼れることこそ、人がひとりじゃないっていうことなんだ。
無意識の検閲――純粋な感情
ぼくは人をよく好きになる。
たとえば人がぼくのために何かしてくれたとき。「ありがとー」と感謝の言葉を伝えるけれど、その後ろに(大好き!)と隠していることが多い。
ほかには、派手じゃないけど大事なことをやっている人を見たときとか、がむしゃらに何かに取り組んでいる人を見たとき、落ち込んでるけど再起しようとする人を見たとき。「頑張ってるね」とか「すごい」「そばにいるよ」とか言いながら、その裏では(好きだなー)と思っている。
けれど現実では、恥ずかしくて好きだと言葉にできない。
目の前にその人がいるだけで、「好き」と言ったらどう思われるかな、なんか恋愛的な意味をもってしまうな、と思う。まして周りに他の人がいただけで「好き」と言えなくなる。感情を告げるのが恥ずかしい。
こういうのはラインでも同じで、「現実のその人」を意識した瞬間に、ぐぐっとフィルターがかぶさってくる。何考えてるのかわからないと言われるのは、たぶん、フィルターでがんじがらめになっているからだ。
みんなの前で感情をあらわにしている人がうらやましい。そういう人は「好き」を、本来の純粋な「好き」という意味で使っている。そういうキャラクターも好きなのだ。
ネットでは、この恥ずかしさが軽減される。
目の前に人間がいないから、いくらでも「好き」と言える。だって誰にも咎められないのだ。自分を縛ってくる圧倒的なフィルターは、ネットの世界では効果が薄い。
なんということだろう!
ネットのなかでは感情が制限されない。自分のなかの無意識の検閲から解放される!
ネットの世界でなら、心と心でつながれる。現実のその人を知っていても、このブログなら「好き」と言える(いま気づいた!)。素晴らしい。
みんな、好きだー。
いままでの「ありがとう」は、ぜんぶ「大好き」に読みかえてください!
大阪地震――手をつないで帰る親子
ゴロゴロゴロと揺れた。
何が起きたのかわからなくて、ぼんやりと目を覚ましながら、ああ地震かと気づく。
そしてグラグラッ、ドンッと身体が浮いた。
あっ、やばいなこれ。体験したことのない揺れだ。
寝ぼけていたから何も動けない。自作の本棚が倒れるのを覚悟した。倒れてこない。よかった。窓を開けて外を確認する。電信柱のあいだに垂れる電線が大きく揺れていた。スマホの電源を入れて、NHKをつける。
京都府南部は震度5強の揺れである。地震で目がさめたのは、初めてだった。
※
――津波の心配はありません。
――官邸対策室が設置されました。
――鉄道は全線で運転を見合わせています。再開の目途は立っていません。
――上空からの映像です……高槻で火災が発生しています
――道路が陥没して、水が噴きだしています。周囲は水浸しです。
次々入ってくる情報とともに、ときどき建物からミシミシと音がする。体感できない余震が続いていた。当初5.7だったマグニチュードは5.9に修正されて、のち6.1で確定した。
震源は大阪府高槻・枚方付近の地下10km。京都市から30kmしか離れていない。直下型の地震だった。「突き上げられるような」という形容詞の意味を初めて知った。身体を衝撃が貫いて、浮いたような感覚がある。
震源地では、こんなもんじゃないな……東日本大震災、熊本震災を物心ついてから見てきたから、なんとなくわかる。いまは情報が少ないだけで死者も出ているはずだ。
※
外に出ると、近所の小学校から帰ってくる親子に何組も出会った。親子は手をつないで家に向かっている。
子どもはウキウキした表情だったけれど、親はどことなく思いつめた表情である。
なぜだろうか、と何気なく疑問に感じる。
少し考えて、気づいた。
近畿圏は1995年に阪神淡路大震災を経験している。兵庫県を中心に死者6000名を超える災害となった。高速道路が横倒しになった写真は、誰もが見たことがある。
親の年代の人たちは、あの震災を生身で感じたのだ。
小学生を子どもにもつ35-45歳前後の親は、23年前は10代から20代前半だった。多感な時期に震災の日々を過ごしたのだ。避難所暮らしをした人も多いだろう。親戚や近所のひとがなくなった人も多いだろう。もしかすると、親もなくしているかもしれない。とにかく、近畿圏に住んでいる人の多くが大震災を生身で感じた。
近畿圏にはそんな親がたくさんいて、それぞれ想いを抱えながら家庭を築いている。子どもは無邪気に「けっこう揺れた! 学校休み!? やたっ!」と思うけれど、親世代にとってみれば昔を思いだしてしまうし、震源地のひとに思いを馳せてしまうし、だからこそ一層家族を大事に感じる。子どもとつなぐ手に力が入るだろう。
「お母さん/お父さんは、ほかのどんなことより、○○のことが大好きだよ」
近畿の人にとって、今日はそういう日かもしれない。
立つ――バランスをとるとは、どういう意味か
あなたが、友だちと電車に乗っていたとする。
立ち続けるゲームをしよう、と友だちに提案する。吊革などにつかまってはいけないし、足を一歩でも動かしてもいけないというルールだ。負けたほうがジュースをおごる賭けも追加する。できれば勝ちたい。
勝利条件は明確である。目の前の相手より一秒でも長く、揺れに負けずにその場で立ちつづけること。つまり、バランスを崩さないこと。
あなたは足の位置と向きを決めて、少し膝を曲げて重心をさげるだろう。あとは、なんとか揺れに対応するだけ……運の側面も大きいから、負けてもしょうがないかな。
こんなところだろうか。
しかしぼくなら、もう一段考える。
――バランスを崩すときは、どういうときだろうか。
そんなふうに自分に問いかける。
電車がガコンと揺れたとき、電車が傾いたとき……そういう回答ではない。だって、揺れにあわせて身体を動かすはずだ。そうして身体のバランスを保とうとする。バランスを保てるときもあれば、保てないときもある。電車という外的な要素は、あたりまえであるがゆえに説明力をもたないのだ。身体がバランスをとれる時ととれない時の境目を知りたい。
ここまで考えると、バランスを保っている状態とは何なのか、という疑問もわいてくる。 バランスとは、何なのだろうか。
答えは実にシンプルである。
バランスが崩れるのは、「重心から鉛直に下ろした点が、両足で作られる四角形の外側にある」ときである。この状態だと、あなたの身体はバランスがとれなくなって一歩踏みだすことになる。賭けに負けてしまう。
逆に言うと、バランスがとれている状態とは、「重心から鉛直に下ろした点が、両足で作られる四角形の内側にある」状態である。この状態を保てれば、あなたは賭けに勝つ。
足のゆびはどうなんだ、という疑問があるかもしれない。個人の筋肉に左右されるけれど、親指は重心が乗っても大丈夫である。小指にいくほど重みに耐えきれなくなってくるから、「足の外側」と定義してよい(だからこそ、相手の重心を小指に移すことが、古武道における崩しになる)
もちろん電車の揺れや傾きがあるから、重心鉛直点が両足の外側にずれ込むことは避けられない。つまりバランスが崩れてしまう。そのとき、速やかに筋肉を使って重心鉛直点を内側に戻すことができれば、バランスを回復できる。バランスをとるとは、重心鉛直点を筋肉で操作することだ。
片足立ちの場合には、重心鉛直点が接地足の内側に収まっていることがバランスの条件である。
歩いているときは両足で次々に接地していくから、基本的には、ここまでの議論をn回繰り返すだけ。バランスの崩れと重みの操作は異なるけど、細かい説明は抜きで。
走っているときは、違う理屈になる。重心そのものを推進力に変えているからだ。陸上短距離のスタートだと、重心鉛直点を両足前方に置くことで爆発的な加速度を生みだす。崩れそうな身体は全身の筋肉で支える。スピードに乗ってくるときには、重心鉛直点は問題でなく、重心の位置が重要になる。走る=両足が接地していない時間があるという定義だから、当然なのだけれど。
ぼくらが無意識に行っている「立つ」という動作だけれど、分解してみると面白い。バレエやダンスの人たちは徹底的に鍛えられる。解剖学的に考えてきた積み重ねがあるからね。
そういう人たちの視点を身につける……とても好き。
(付け足し)
古流の動きのなかで、とくに重要な「静と動の組み合わせ」や「重みの制御」については、少しずつまとめます。これまで読んできた本には、内的な論理を説明したものがない。
重大な問題だよ。『五輪書』みたいに内的極致を書き記したものがあるのに、現代の科学的理解でアップデートする本がない。口伝に頼ってる。言語化できるところは、ぜんぶ解体しきらないと。